History

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2016年7月22日 (金) 13:37時点におけるJulyfestival (トーク | 投稿記録)による版 (前史)

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って、ポツダムは人口の半分近くを失った。


中世以前

タキトゥスによれば、青銅器時代ゲルマニアの一部であった。ゲルマン民族民族移動時代後、スラヴ人7世紀頃にHevelli部族の移住とし入って来た。オットー3世 (神聖ローマ皇帝)はその土地をクヴェードリンブルクの修道院に授与した際、初めて993年の文献にPoztupimiとして記述されている[1]1317年までは小さな町として記述されていた。1345年に都市特権を得た。

7世紀 - 大化の改新

993年頃の日本 - 藤原道長の時代

都市特権 - Cityとして自治権、課税権など

1345年 - 室町時代(1336-)初期

1573年 - 戦国時代 織田信長が室町幕府を滅ぼす、武田信玄(三方原の戦い)

三十年戦争

1573年のポツダムは、人口2000人程度の小さな市場町であった。三十年戦争によって、ポツダムは人口の半分近くを失った。

三十年戦争とは

1618-1648

ドイツ周辺を戦地として起きたヨーロッパの戦争

新教徒・新興国 VS 旧教徒・ハプスブルク家

  • スウェーデンバルト帝国
  • フランス王国
  • デンマーク=ノルウェー連合
  • イングランド王国
  • オランダ
  • ザクセン選帝侯
  • プファルツ選帝侯
  • ブランデンブルクプロイセン選帝侯
  • オスマン帝国

VS

  • 神聖ローマ帝国
  • スペイン
  • ハンガリー
  • クロアチア


前史

400pxleft ゲルマン民族の大移動の結果、5世紀から10世紀にかけてヨーロッパ大陸ではフランク王国(481-987)が栄えました。首都はパリ(アーヘン)。9世紀になると、ルードヴィッヒ王(フランス語の発音では「ルイ」)の子孫は王国を分割して、西側が西フランク王国(現在のフランス)、東側が東フランク王国になります。東フランク王国はまもなく神聖ローマ帝国となり、20世紀初頭まで続きます。これが第一次世界大戦の前後に分裂してドイツやイタリアなどの諸国になります。

宮殿

ブランデンブルク伯

初代のブランデンブルク伯は1157年に就任したアルブレヒト熊公(Albrecht der Bär、1100?-1170)。(何がどう「熊」なのかは史料がなくわかっていない)

Brandenburg

アルブレヒト熊公は、エルベ川の東へ進出して領地を築き、神聖ローマ皇帝のフリードリヒ1世(バルバロッサ)によって「ブランデンブルク辺境伯」の地位が創設された。その息子オットー1世はさらに領地を拡大、ポーランド、ベルリン、フランクフルト、シュテッティンなどを獲得した。その家系はブランデンブルク伯を継ぐ本家とザクセン公を継ぐ分家に分かれた。(ザクセン公の地位は、アルブレヒト熊公の母方から継いだ。母がザクセン公の娘で、ザクセン公家が断絶したので。ザクセン公領というのはざっくり言ってドイツの北側。「ザクセン Sachsen」は英語では「サクソン Saxon」であり、サクソン人のこと。)

アルブレヒト熊公の直系(アスカニエン家)が14世紀に断絶すると、当時の神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世がアスカニエン家と姻戚関係があったため、ブランデンブルク伯の地位はルートヴィヒ4世が獲得した。


ブランデンブルク選帝侯

選帝侯というのは神聖ローマ帝国の貴族の称号。神聖ローマ帝国は有力貴族の会議によって王を決めることになっていて、(正確にはドイツ王を選挙で決め、そのドイツ王がさらに皇帝になる)、その議決権をもっている貴族を選帝侯という。

選帝侯の人数は時代によって違っていて、当初は6人(マインツ大司教、ケルン大司教、トリーア大司教、ライン宮中伯、ザクセン公、ブランデンブルク伯)だった。しかし投票が割れて戦争になることが度々あり、13世紀末にボヘミア王が加わって7人になった。


辺境伯の地位はヴィッテルスバッハ家、ルクセンブルク家へ移る。そのルクセンブルク家から神聖ローマ皇帝のカール4世(1316-1378)が出て、


を転々とする。1415年にホーエンツォレルン家に移る。

ホーエンツォレルン家





ポツダムの命運が劇的に変わったのは、1660年ブランデンブルク=プロイセン選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの狩猟館として選ばれてからである。その後、ホーエンツォレルン家の宮殿が置かれるなどプロイセン公国の拠点の一つとして発展した。1685年フランスルイ14世ナントの勅令1598年に定められていた宗教寛容令)を廃止してユグノーの迫害を図ると、プロイセンはポツダム勅令English版を発表した。これにより、ポツダムはヨーロッパ移民の中心地となった。フランスのユグノーの亡命者のほか、ロシアオランダボヘミアなどから、移民がやってきた。移民をひきつけたのは、勅令によるその宗教的な自由度である。

その後、街はプロイセン王家の居住地となった。王家の壮大な建造物は、18世紀半ば、主にフリードリヒ2世の治世の間に建てられた。そのうちの一つが、庭園ロココ様式の内装で有名なサンスーシー宮殿である。他には、新宮殿オランジェリー宮殿がある。
  1. August Kopish, "Die Königlichen Schlösser u. Gärten zu Potsdam", Berlin, 1854, p. 18