シュトゥルム・ウント・ドラング

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冒頭文

シュトゥルム・ウント・ドラング(独:Sturm und Drang) とは、1770年頃から1780年頃にかけてドイツで見られた革新的な文学運動である。日本では「疾風怒濤」と翻訳されてきた[1][2][3]

ごく短い期間に終わった運動ではあるが、ドイツ文学史における「革命」と位置づけられている。これにより、ドイツ文学界を支配していた従前の啓蒙思想が打破されるとともに、世界的にみてほとんど顧みられることのなかったドイツ文学が世界の主流に躍り出る契機となった[1]

呼称

この運動の名称自体は、この時代の劇作家であるクリンガー戯曲『Sturm und Drang』(1776年)のタイトルからとられている[1]

この運動が行われて間もない時期には、「Geniezeit」(天才時代)という名称で呼ばれていた[4]

このほか「Gärungszeit」(醗酵期)という表現を用いる者もいた[4][注 1]

1820年代になると、ドイツの文学者たちの間で「Sturm und Drang(シュトゥルム・ウント・ドラング)」の呼称が定着した[4]


「シュトゥルム(独:Sturm)」は英語の「storm」に相当し、もっぱら「嵐」などと和訳される語である。「ドラング(独:Drang)」は英語の「drive」「urge」ないし「impulse」「pressure」「thirst」などに相当する語で、「Sturm und Drang」は英語圏では「Storm and Stress[5][6]」などと訳されてきた[5]


ドイツ文学を専門とするフランス人J.F.アンジェロス(fr:Joseph-François Angelloz、カーン大学(fr:Université Caen-Normandie)教授)も、シュトゥルム・ウント・ドラングは「訳すことができない」とした。アンジェロスに拠れば、単純に単語を訳すると「嵐と衝迫」になるが、それでは本来の戦闘的なニュアンスが失われてしまうのである[7]。ドイツ語の「シュトゥルム・ウント・ドラング」は、意味合いとしては「突撃強襲」というような響きを持っている成句である[4]

日本では夏目漱石がシュトゥルム・ウント・ドラングを「襲ひと迫り」と和訳した[4]。その後の文学者たちは「狂颷時代[注 2]」、「飓風時代[注 3]」、「天才崛起時代[注 4]」などの訳語をあててきた[4]

京都大学でドイツ文学を教えていた成瀬無極は「疾風怒濤」の訳語をあてた。成瀬は当初「狂瀾怒涛」という訳を考えていたが、「シュトゥルム」がもつ「嵐」の語義と、「しっぷう(Sippu)・どとう(Dotou)」の音が原語の頭文字(S und D)と頭韻を成すことから「疾風怒濤」に改めたものである[4]

語義から言ふと、「突撃強襲」が中っているが、元来、この派の詩人クリンゲルの戯曲の名から出たもので、それは沙翁の「テンペスト」に似たものであるから、「あらし」の心を取って之を比喩的に云ひ現はしても差支あるまい。(中略)私は最初比較的耳慣れた成語を用ゐて、「狂瀾怒涛」としてみたが、後ちに原音の響きに近い「疾風怒濤」に改めたのである

成瀬無極、『疾風怒濤時代と現代獨逸文學』

以後、日本の文学界では「疾風怒濤」の訳が定着した。上村清延の『ドイツ文學史概説』(1951)などでは「疾風怒濤」を訳語として採用し、以後、現代の文献でもこれがしばしば用いられている[8][9][10][11]。とはいえ、成瀬自身も自著のなかで「他国語には翻訳し難い」「その為に一層神秘的」と述べている[4]


成瀬よりも一時代前の英文学者斎藤秀三郎東京帝国大学)が成瀬の『疾風怒濤時代と現代獨逸文學』と同時期に出版した和英辞典の中では、英語の「storm and stress」を基に「国民思想の勃興期」などと意訳している[2]


ドイツ文学研究者の佐藤晃一は「嵐と衝迫」としている[1][2]

手塚富雄ははじめ「嵐と襲撃」と訳していたが[12]、「嵐と衝動」に改めている[12]

「あらしと衝動[13]」(矢崎源九郎)、「襲撃と突進[14]」(横岡雅雄)

概要

一般に、「シュトゥルム・ウント・ドラング」運動は、旧来の啓蒙思想・合理主義が教条的で個人の感情を否定するものだったことに反対し、個人の感情を爆発的に表現した文学運動だと解釈されている。また、旧来の啓蒙思想・啓蒙文学の担い手がもっぱら老齢な学者だったのに対し、「シュトゥルム・ウント・ドラング」は青年による文学運動だった。その代表人物がゲーテシラーである[1][15]

この運動はもともと、文学のみならず、市民階級を刺激することで社会や政治に対する変革を期待したものであり、当時のプロイセン王国啓蒙専制君主制のイデオロギーを打破しようと目されていたものだったと考えられている。しかし、当時のドイツ社会は、国としても身分・階級としても未だ数多くに分裂した状態であったために、青年たちが期待したような社会運動としては不首尾に終わった。そのため結果的には、この運動は文学の世界のみにとどまることになった[1][15]

「シュトゥルム・ウント・ドラング」の青年たちは、文学界、とりわけ戯曲を支配してきた「三統一」という形式を破り、韻文にこだわることも捨て去った。これによって、青年らしい激しくほとばしる感情を自由な言葉で表現することが可能になった。さらに彼らは遠慮なく反社会的なテーマをモチーフとし、社会の暗部をとりあげた。彼らによれば、イギリスのシェイクスピアがその手本だった[注 5][1][16][15]

しかしこうした激烈な運動はすぐに旧時代的な社会の壁に当たった。激情にまかせて過激な「シュトゥルム・ウント・ドラング」に加わった青年たちは、文学の世界のみならず、社会的・実生活の面で「破滅」した。ドイツを追われて正気を失いロシアの道端で死んだレンツや、体制を批判して投獄されたシューバルトがその典型例である。こうしてこの運動はドイツ文学史のなかではごく短期間で終わった[1][16][15]

この運動の中心的役割を果たしたゲーテとシラーだけは、早い段階で運動に見切りをつけた。彼らは冷静さを取り戻し、次の古典主義の時代を築くことになる[1][16][17][15]

一般的な文学の潮流と同じように、「シュトゥルム・ウント・ドラング」運動の年代を厳密に規定するのは困難である。しかし、運動の理論的指導者だった哲学者ヘルダーと、青年だったゲーテがシュトラスブルクで出会った1770年を「起点」とするのが「文学史の常識[18]」とされている[18]

ドイツ文学史における位置づけ

ドイツでは18世紀に啓蒙思想が隆盛した。イギリスでは啓蒙思想によって市民社会が誕生したが、ドイツではむしろ啓蒙思想は専制政治と結びついた。そして、迷信や因習を打ち破るために理性を重んじるという合理主義が、いきすぎて個人の感情を否定するまでになった。「シュトゥルム・ウント・ドラング」は、こうした抑圧に対する激しい反抗となって現れた運動である。しかしそれはあまりにも激しい「爆発」であり、行き過ぎたものになった。そのために自らの首を絞める結果となり、運動は短い期間で終息することになった。ゲーテとシラーだけはこの運動の限界を早々と見抜いて運動を離れ、次の古典主義に移って華々しい成果をあげることになる[15]

人文主義と啓蒙思想

ドイツでは中世の前半にキリスト教文学が育まれ、中世の後半からは『ニーベルンゲンの歌』に代表されるような騎士文学が勃興した[19]。16世紀に入るとルネサンスがドイツにも伝わり、人文主義、すなわち「理性」や「悟性」によって教会の権威や封建的な因習から解放し、個人の自由を実現しようという風潮が広まった[20][注 6]

しかしそれに続く17世紀はドイツ文学にとって「不毛」な世紀だったと評されている[注 7]。17世紀の前半はドイツ全土が三十年戦争の戦地となって荒廃し、キリスト教権威が力を盛り返して文学は「暗黒時代」へと逆戻りした。17世紀後半は外国の文学の輸入・模倣が行われた[21]

18世紀に入ると、啓蒙思想がドイツにも入ってきた。啓蒙思想はオランダで興り、イギリスやフランスを経てきたものである。「啓蒙思想」は16世紀の人文主義を下地として醸成されたものであり、「旧来の迷信・因習などの不合理なものを理性によって批判し、それへの従属から脱却して、人間の自由と幸福を獲得[22]」しようという思想だった。しかし、イギリスでは啓蒙思想と産業革命が結びついて近代的な市民社会が形成されていったのに較べると、ドイツではプロイセン王国の軍国主義と結びついて、啓蒙専制君主制と呼ばれる「上からの啓蒙」が行われた。その担い手がヴォルフ(1679-1754)やゴットシェート(1700-1766)である[22]

ライプニッツ(1646-1716)に師事したヴォルフは、哲学界や文学界を自身の信奉者で固めて「支配」した。ヴォルフの後継者となったゴットシェートも文学界の権勢者となって18世紀前半のドイツ文学界・芸術界を取り仕切った。彼らの思想によれば、「文学は悟性の仕事であるから、感情や空想は排すべきで、知識こそその源泉である[22]。」したがって文学は「教訓を与え、人心を教化する」ための存在となった。ゴットシェートはこの考えに基いて演劇界から「低級」なものを駆逐した[22][注 8]

ゴットシェートの後裔と啓蒙主義の完成

ライプツィヒからドイツ文学界を支配したゴットシェートに対して、スイスのチューリッヒにいたボードマーとブライティンガー(en:Johann Jakob Breitinger)は論争を挑んだ。ボードマーらはミルトンの『失楽園』を引き合いに出して文学における「空想」の重要性を主張した。最終的にこの論争はボードマーらの勝利におわり、ゴットシェートの権威は失われることになった[22]

その後のドイツ文学界にはゴットシェートに反対する立場のヴィーラント(1733-1813)やクロプシュトック(1724-1803)が現れた。ヴィーラントは享楽的・ロココ的な作品を、クロプシュトックは感傷的・叙情的な作品を残した。とはいえ、両者の作品も未だ啓蒙主義的な性格を強く持っており、啓蒙主義文学を発展させた人物とみなされている[22]

そしてそのあとを継ぎ、啓蒙主義文学を「完成」させたのがレッシング(1729-1781)である。レッシングはシェイクスピア、ひいてはギリシア悲劇の影響を受けて多くの演劇作品を残した。レッシングは、英雄譚ではなくドイツ市民の感情を描いたという点で、ゴットシェートに「とどめを刺す」役割を果たした。しかしその文体は感情を前面に押し出すようなものではなく、むしろ「怒号叫喚、感情の爆発を避けて、できる限り筆をおさえ、簡潔な文体に深い内容を盛ろう[22]」という強い意図で作られたものである。そして、人類愛を説き、文学を通じて読者を高めようという意図をもっており、啓蒙主義の完成者と評されている[22]



古典主義啓蒙主義に異議を唱え、理性に対する感情の優越を主張し、後のロマン主義へとつながっていった。代表的な作品として、ゲーテの史劇『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』(1773年)や小説『若きウェルテルの悩み』(1774年)、シラーの戯曲『群盗』(1781年)や悲劇『たくらみと恋』(1784年)など。クラシック音楽では中期のハイドンの名が挙げられる。

「ドイツ語」「ドイツ文学」の成立史

ドイツ」という「国」が現在のような形になるのは1871年のドイツ統一によってである。さらにその母体として、35の領邦と4つの帝国自由都市が形成したドイツ連邦(1815年成立)やライン同盟(1806年成立)をあげることができる。いずれにせよシュトゥルム・ウント・ドラング運動が行われた1770年から1780年頃には、まだ「ドイツ」という「国」は存在していなかった。(詳細はドイツの歴史を参照。)

ドイツ語の「誕生」

現代のドイツ語新高ドイツ語[注 9])の基礎をつくったのは、16世紀に宗教改革を行ったマルティン・ルターだとされている[24]。その頃のドイツ語は無数の方言に分かれており、標準語といえるようなものを持っていなかった。民衆の上に立つ教会・知識層はラテン語を用いており、その意味でまだドイツの民衆は「ドイツ語」の文学を持っていなかった[24][注 10]

ルターはザクセンの公用語をベースに、各地の方言や大衆語をとりいれて、すべてのドイツ人が読むことが可能な「ドイツ語の聖書」をつくりあげた[24][注 11]。この聖書はヘブライ語から(ラテン語を経ずに)直接ドイツ語に翻訳したものであり、これによってドイツ人はラテン語の支配から「解放」されるとともに、「国語」としてのドイツ語でものを書き記す自由を獲得した[24]。そのことが「ドイツ」「ドイツ人」としてのアイデンテティの基礎になっていったとされている。

反動と停滞

しかし、それに続く17世紀は「ドイツ語」「ドイツ文学」にとっては実りが少ない時期となった。ルターの急進的な改革は、かえってキリスト教保守派の強い反発をまねき、ドイツではむしろ旧時代的な教会や領主の権威主義が強化された。そして旧教と新教の対立が三十年戦争(1618年-1648年)につながり、この戦禍でドイツ一帯は人口の3分の1を失うほど荒廃した。「ドイツ語」を用いる民衆は力を失い、ヴェストファーレン条約によって統治権を認められた貴族と宮廷がむしろ力をつけた。貴族や宮廷の詩人たちは、伝統的なラテン語や、三十年戦争で大いに影響力を振るったフランスに傾倒したので、17世紀のドイツではもっぱら外国文学の輸入や模倣が盛んに行われただけだった[26]



この戦争に加担したフランスの影響もあり、ドイツで用いられる言語はフランス語の影響を多く受けた。18世紀に入ると、ドイツ圏の中心地となったライプチィヒライプツィヒ大学)で、ヴォルフ(1679-1754)やゴットシェート(1700-1766)といった哲学者・文学者によって「正しいドイツ語」が整備されていった。

代表作

  • 『ソクラテス追憶』(1759年) - ハーマン
  • 『文学者の十字軍行』(1762年) - ハーマン
  • 『脱衣と浄化』(1786年) - ハーマン
  • ヘルダー
  • 戯曲
  • 『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』(1773年) - ゲーテ
  • 若きウェルテルの悩み』(1774年) - ゲーテ
  • 『家庭教師』(1774年) - レンツ
  • 『兵士たち』(1776年) - レンツ
  • 『シュトゥルム・ウント・ドラング』(1776年) - クリンガー
  • 『双生児』(1776年) - シラー
  • 『嬰児殺し』(1776年) - ヴァーグナー
  • 群盗』(1781年) - シラー
  • 『たくらみと恋』(1784年)- シラー


「ゲッティンゲン詩人同盟」(森林同盟)をつくり、『詩神年鑑』を刊行。


脚注

注釈

  1. これは、啓蒙文学が、シュトゥルム・ウント・ドラング期を経て、古典文学・ロマン文学へと成熟し、ドイツ文学が一つの絶頂期を迎えるとともに「ドイツ」という国民概念が誕生したことを比喩したもの。ドイツの南部では、ぶどうが醗酵してワインになる途中の段階のものを飲料としたもの(フェーダーヴァイサー)を「シュトゥルム」と呼ぶ。
  2. 「颷」は「激しく吹き荒れる風」の意
  3. 「飓」は「台風」の意
  4. 「崛」は「高くそびえる」の意
  5. この頃、イギリスでは既に、教会や宮廷といった旧来の権威の失墜・個人主義の発達と産業革命によって、旧来の王侯貴族の時代から市民の時代に移り変わっていた。その権威の失墜をもたらした要因の一つがシェイクスピア文学だとみなされていた。
  6. この風潮を下地としてルターによる宗教改革が行われ、ルターによる聖書のドイツ語訳によって新高ドイツ語が生まれ、これが現代ドイツ語の直接のもとになった[20]
  7. 「試みに他のドイツ文学史を手にされるならば、十七世紀にさかれた分量があまりにも少ないことに驚かされるであろう。(中略)そしてみないい合わせたように不毛という結論」 - 佐藤晃一『ドイツ文学史』p56「十七世紀文学の位置づけのために」より抜粋[21]
  8. 本筋から外れるのでここでは詳述しないが、ヴォルフやゴットシェートらは、「ドイツ語」の成立に寄与したと評されている。「ドイツ」として統一される前の時代にはまだ「ドイツ語」は完全には成立しておらず、特に三十年戦争でヨーロッパの諸勢力がドイツ中に影響を及ぼしたこともあって、さまざまな言語の影響を受けて分裂状態にあった。とりわけフランス語の影響を強く受けていたが、16世紀にルターが創めた新高ドイツ語をベースとして、ヴォルフやゴットシェートが「正しいドイツ語」を確立していったのである[22]
  9. 新高ドイツ語の「高」は「高地」を略したものである。ドイツ語はおおまかに高地ドイツ語(ドイツ中・南部)と低地ドイツ語(ドイツ北部)に大別されている。高地ドイツ語はさらに時代によって区分されており、古典的な3区分として古高ドイツ語(8世紀から11世紀)、中高ドイツ語(11世紀から15世紀)、新高ドイツ語(15世紀以降)に大別されている。現代では、中高ドイツ語と新高ドイツ語の過渡期として初期新高ドイツ語(14世紀から17世紀)を含めた4区分とされている。シュトゥルム・ウント・ドラング運動に対する文学史的評価が盛んに行われた19世紀の時点では、まだ3区分が用いられていた。[23]
  10. 現代では、12-13世紀に遡る『ニーベルンゲンの歌』が中高ドイツ語で書かれたドイツ文学の記念碑とみなされているが、その評価は19世紀以降に確立されたものである。18世紀の終わりに起きたロマン主義のなかで『ニーベルンゲンの歌』が「再発見」され、19世紀から20世紀にかけてのドイツのナショナリズムの高まりの中で、これをドイツ文学の祖というようになったものである。つまり、ルターやシュトゥルム・ウント・ドラングの時代には、『ニーベルンゲンの歌』はドイツ文学としては事実上存在していなかったのである。[25]
  11. このため、ルターが新高ドイツ語の創始者であるともされている。中高ドイツ語と新高ドイツ語のあいだに初期新高ドイツ語をおく区分もあり、ルターを「新高ドイツ語の創始者」とはみなさない考え方もある。

出典

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 1.8 佐藤晃一『ドイツ文学史』p77-78「疾風怒濤とは何か」
  2. 2.0 2.1 2.2 三省堂大辞林第三版』「シュトゥルムウントドラング」コトバンク版 2016年9月22日閲覧。
  3. 小学館デジタル大辞泉』「シュトゥルムウントドラング」コトバンク版 2016年9月22日閲覧。
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 4.5 4.6 4.7 『疾風怒濤時代と現代獨逸文學』p1-4
  5. 5.0 5.1 メリーランド大学カレッジパーク校,Jeffrey Jensen Arnett,1999,Adolescent Storm and Stress, Reconsidered (PDF) 2016年9月22日閲覧。
  6. E.g. HB Garland, Storm and Stress (London, 1952)
  7. J.F.アンジェロス『ドイツ文學史』,p32
  8. 上村清延『ドイツ文學史概説』,p78-83
  9. 鼓常良『ドイツ文学史』,p207
  10. 横田忍『赤ん坊殺しのドイツ文学』,p7
  11. 佐藤研一『劇作家J・M・R・レンツの研究』,p12
  12. 12.0 12.1 手塚富雄神品芳夫『増補ドイツ文学案内』,p58
  13. 矢崎源九郎『世界文学入門』,p114
  14. クラブント著・横岡政雄訳『ドイツ文學小史』,p43
  15. 15.0 15.1 15.2 15.3 15.4 15.5 佐藤晃一『ドイツ文学史』p99-126「古典主義」
  16. 16.0 16.1 16.2 佐藤晃一『ドイツ文学史』p81-86「疾風怒濤」の劇作家と詩人たち
  17. 佐藤晃一『ドイツ文学史』p86-89「若きゲーテ」
  18. 18.0 18.1 佐藤晃一『ドイツ文学史』p78-81「道を開いた人々」
  19. 佐藤晃一『ドイツ文学史』p8-34「中世」
  20. 20.0 20.1 佐藤晃一『ドイツ文学史』p36-46「宗教改革と人文主義」
  21. 21.0 21.1 佐藤晃一『ドイツ文学史』p46-58「十七世紀」
  22. 22.0 22.1 22.2 22.3 22.4 22.5 22.6 22.7 22.8 佐藤晃一『ドイツ文学史』p60-76「啓蒙思想」
  23. 手塚富雄神品芳夫『増補ドイツ文学案内』,p29
  24. 24.0 24.1 24.2 24.3 手塚富雄神品芳夫『増補ドイツ文学案内』,p42-43
  25. 手塚富雄神品芳夫『増補ドイツ文学案内』,p26-28
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参考文献