騎士戦争
フランツ・フォン・ジッキンゲン(1481.03.02-1523.05.07)
目次
冒頭文
騎士戦争(ドイツ語: Ritterkrieg)は、
フェーデ(私闘)
概要
背景
フェーデと永久ラント平和令
神聖ローマ帝国では、15世紀に国政改革が進められ、帝国支配に関する法制度の整備が行われた。1495年にマクシミリアン1世が定めたラント平和令(永久ラント平和令)によって、この制度は一定の完成をみた。この平和令は帝国内の諸々の自立勢力と皇帝が取り交わした協約の形をしており、帝国内には法と秩序に基づく支配体系が確立されるとともに、諸勢力によって構成される帝国議会の位置づけが明確にされた[1][2]。
「ラント平和令」というものは、1495年以前にも度々発布されたものである。そのもともとの趣旨は、神聖ローマ帝国内における「フェーデ」(私闘)を禁じるためのものだった。フェーデというのは合法性をもつ決闘の一種で、元来は適切な手続きによって問題解決を武力で行う権利(フェーデ権)であったが、やがて身代金目的の誘拐や略奪の方便として横行するようになった。これを禁止するために「ラント平和令」がしばしば発布されたのだが、実際にはあまり効果はなかった[注 1]。1495年の「永久ラント平和令」は、この措置を恒久化しようという名目で結ばれたものだった[5][2]。これにより帝国内の司法権が確立され、その司法権を維持するために各領邦君主の権利や義務が法制化されたのだった[2][注 2]。
大諸侯の成長と騎士の没落
永久ラント平和令により、大衆を直接支配し、税を徴収したり徴兵を行ったりするのは領邦(世俗諸侯である領邦君主や聖界諸侯である大司教など)や帝国自由都市が担うことになった。この意味で、帝国の直属下にあるのは領邦であり、大衆は間接的な臣民ということになった[6]。この制度が出来上がるまでには有力な諸侯の意向が働いており、大諸侯ほど有利に領邦国家を形成していったのに対し、中小諸侯の力は弱められていった[2]。とりわけ下級貴族である騎士層の身分の取り扱いはあいまいで[6]、彼らは「帝国騎士(ライヒスリッター)」と位置づけられて帝国直属ではあるようだったが[7][8]、きちんと定められていなかった[6]。彼らは帝国直属の身分であるにも関わらず、帝国議会の票決権も有していなかった[8][注 3]。オーベルラインと呼ばれるライン川の上流域、すなわちドイツの南西部は、とりわけこうした帝国騎士や小領邦が多かった[8]。
この時代には、火薬の登場に代表される技術の進歩と発展によって戦術が大きく変わった[9]。戦場で決着をつけるのは、勇敢な騎士ではなく、性能の良い大砲や鉄砲になった[10]。それを操るのは市民兵である[9]。皇帝マクシミリアン1世が「最後の騎士」と呼ばれたように、15世紀の終わりから16世紀にかけて、騎士の時代は終わりを迎えつつあった[9][10][注 4]。貨幣経済の普及と都市の発展がこれに拍車をかけた。かつては騎士に対する報酬は土地と農民だったが、金で雇う傭兵が用いられるようになると、皇帝や君主たちは、傭兵に払う金の出どころである都市の市民を重視することになり、そのことも封建的な騎士階級の地位を引き下げることにつながった[9]。しかし騎士が領邦に仕えようにも、そこで重用されるのは大学教育を受けた知識階級であり、騎士は居場所が無くなっていった[10]。
彼らはもともと下級貴族だったが、領地は小さく、経済的には生活を維持できるかどうかの水準にまで貧窮していた。彼らの多くは傭兵として給金を稼ぐことで生計を立てており、仕事先を求めて各地をうろついていたが、こうした傭兵の存在自体が争い事の原因にもなっていた。彼らは仕事がなければ盗賊となって町や行商人を襲い、強盗や略奪を行い、盗賊騎士(Raubritter)として浮浪した[10]。一応は貴族の身分でありながら、こうした行為を働いて都市で捕まり、処刑された者も珍しくなかった[11]。
ドイツの人文主義と反ローマの機運と宗教改革
イタリアに始まったルネサンスの一派である人文主義がドイツに伝播すると、ドイツ独自の特徴を帯びるようになった。その特徴の一つは、イタリア人らが古代ローマやギリシアを古典として学ぼうとしたのに対して、ドイツの古代を古典として研究するグループが現れたことである。これによってドイツでは愛国主義が萌芽した[12]。
もう一つの特徴は、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語の研究を行って聖書の原文を読解しようというグループが現れたことだった。これはカトリック教会による「公式」なラテン語聖書に対する批判に繋がることになり、カトリックの教義や制度に対する疑義を生じさせることになった[12]。
こうしたドイツの人文主義者の代表がエラスムスである。エラスムス自身はカトリックの司祭であり、カトリック教会の内部からの批判を行ったものの、あくまでもカトリック教会の下僕として振る舞った[12]。
エラスムスの影響を受けた人文主義者の中からは、もっと手厳しい教会批判を行う者が現れた。彼らは反ローマの機運を醸成していき、その中からルターが出現して苛烈な教会批判を行い、1517年に宗教改革の戦端を開いた[12]。
とは言え、人文主義者の多くは、はじめのうちは宗教改革を遠巻きに眺めるだけだった。彼らはルターが始めた争いを「僧侶の喧嘩」とみなしていた[注 5]。しかし、1519年にライプツィヒで行われたルターとヨハン・エックの討論を境に、評価が変わることになった[注 6]。エラスムスの主張に感銘を受けた人文主義者の中から、ルターに賛同して教会を厳しく批判し、反ローマの立場を鮮明にした宗教改革者たちが続々と現れた[12]。
主な人物
精神面の支柱、フッテン
ウルリヒ・フォン・フッテン(1488-1523)は、フランケン地方の下級貴族で、騎士身分を持っていた[12]。20代前半を学生と傭兵としてイタリアで過ごして熱烈な人文主義者となり、ドイツに戻ると激しい愛国心とローマに対する敵愾心を露わにし、教会に対する革命的闘争を企図するようになっていった[14]。
フッテンはエラスムスの人文主義の影響を受け、初めはラテン語で、後にはドイツ語で著作を重ね、1520年には『対話集』を著した。これはドイツの愛国主義とローマ教会批判の性格を強く帯びたものだった[12][14]。フッテンはルターに書簡を送り、その中で「どんなことがおころうとも私が傍についております。われらは共通の自由を擁護しようではありませんか[15]」と述べ、ルターを強く支持することを表明していた。
しかしながら、この後の宗教改革の動きは、ルターの意図に反して急進的で過激な方向に進んでいった。ルター自身は寛容さと忍耐によってゆっくり着実な改革を望んでいたのだが、1521年のヴォルムス帝国議会に出席して帝国アハト刑を宣告されたルターがその直後に「失踪」してしまったことで[注 7]、指導者を失った宗教改革派が過激化してしまったのである[16]。フッテンはそうした過激な蜂起の精神面を担う立場になっていった[14]。
軍事面での支柱、ジッキンゲン
フランツ・フォン・ジッキンゲン(1481-1523)はドイツ南西部(オーベルライン地方)のクライヒガウ出身の帝国騎士だった[注 8]。その本拠はヴォルムスの西方のエーベレンベルク城で、その領地はアルザス地方にまで及んでいた。領内には鉄や水銀の鉱山があり、その収入によってこの地域での有力者の地位を築いていた[10]。
また、ジッキンゲンは武芸に秀でており、1517年からは皇帝マクシミリアン1世の軍事指揮官に任じられている。1519年にドイツ南部の有力諸侯の一人、ヴュルテンベルク公国のウルリヒと、ドイツ南部の諸侯によるシュヴァーベン同盟とが対立した戦いでは、ジッキンゲンがウルリヒ追放軍の主力を担った[10]。
しかしジッキンゲンは性格に難があり、周囲との諍いが絶えなかった。ジッキンゲンは何かと口実をつけて近隣諸侯に武力攻撃をしかけたが、これは実際には賠償金目当てのフェーデだった。1515年から1518年には帝国自由都市ヴォルムス市、ヘッセン方伯フィリップ1世が治める領邦都市ダルムシュタットやロートリンゲン公アントワーヌを攻撃して金貨35,000枚をせしめ、メッツ市を約2万の兵で包囲して金貨20,000枚を脅し取った。1519年に後ろ盾となっていたマクシミリアン1世が死ぬと、次期皇帝の選挙まっただ中の帝国自由都市フランクフルト市にさえフェーデをしかけた[注 9][10]。
その他の人物
フッテンとジッキンゲンの一味には、人文主義から宗教改革へ転じ、宗教改革者として名を残した人物がいる。ジッキンゲンの取り巻きだったブツァー(1491-1551)、エコランパッド(1482-1531)である[10]。
ブツァーはドミニコ会の修道士で、ルターとツヴィングリと交流し、両者の仲立ちをした。エコランパッドはエラスムスの聖書翻訳に協力した人文主義者である。騎士戦争のあと、バーゼル大学の神学教授となり、改革派教会の立場から宗教改革を行った[18][19][20]。
「戦争」の経過
ヴュルテンベルク公の追討戦
1519年にドイツ南西部でヴュルテンベルク公国のウルリヒに対する討伐戦が行われた。ヴュルテンベルク公と地元のシュヴァーベン同盟の間には予てから対立があったのだが、ヴュルテンベルク公の妻は、ドイツ南部の有力諸侯であるバイエルン公の娘であると同時に神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の姪であり、皇帝に恩義のあるシュヴァーベン同盟はヴュルテンベルク公に手を出せなかった。しかし1519年にマクシミリアン1世が死ぬと、同盟はヴュルテンベルク公に攻めかかった[注 10]。
この討伐軍の主力を担ったのがジッキンゲンの軍だった[10]。ここでジッキンゲンとフッテンは知己を得た[10]。フッテンの親戚にあたる人物がヴュルテンベルク公に殺されており、フッテンにとってウルリヒは個人的な仇として討伐に加わっていた[注 11][14][10]。もともと文学者としての道を歩んでいたフッテンは、ヴュルテンベルク公を告発する『ファラリス主義』(Phalarismus)という作品を著し、以前からこの機会を待っていたのだった[14]。
ジッキンゲンとルター
1521年春、既に教会からは破門を宣告されていたルターのもとへ、皇帝カール5世から帝国議会へ来るように召喚状が届いた。異端による破門宣告を受けているということは、捕まって教会の手に渡れば殺される可能性がある。カール5世は、ルターの身の安全は保証すると約束したが、100年前のヤン・フスは皇帝に身の安全を保証されて出向いた公会議で捕縛されて火あぶりにされている。ルターが帝国議会へ出るには、同じような危険があった。
このとき、フッテンがジッキンゲンにルターの件を話すと、ジッキンゲンはルターの主張に共鳴したという。ジッキンゲンは、部下のブツァーを帝国議会のあるヴォルムスへ向かう途中のルターのもとへ送り、ジッキンゲンの本拠であるエーベルンベルク城に逃れるよう、進言させた。しかしこのときルターはその申し出を断った[10]。
1
プロテスタンティズムを政治目的に利用した最も初期の事例
1522年
騎士の乱
ウルリヒ・フォン・ジッキンゲン(1481-1523)
傭兵騎士。西ヨーロッパ中で騒乱の要因となっていた。働き口を求めて。 戦争がなくなり傭兵となる機会がないと、盗賊として実力行使に訴えていた。
ジッキンゲンは宗教改革を、戦争を起こして傭兵としての働き口を得るか、略奪を行う戦歳いつぐうの好機ととらえた。
ウルリッヒ・フォン・フッテン(1488-1523)
人文主義者。ジッキンゲンを理論面で支えたクズ。
ジッキンゲンは傭兵を募り、プロテスタントに加勢するという口実で、カトリック司祭たちに「私闘」を宣言し、さらに、帝国の7つの選帝侯領の中では最も弱小な大司教都市トリーアに攻撃をしかけた。
攻撃側が驚いたのは、都市側が徹底抗戦を決め込んだことである。他の諸侯も急遽支援にかけつけた。ジッキンゲンは死んだ。フッテンはスイスに逃亡。のちに梅毒で死んだ。ヨーロッパにおける梅毒の最初の死者とされている。
ルターは、騎士の乱に踊りき、『世俗の権威について』を書いた。この中で騎士の乱を断罪し、人民は上に立つ権威に従う義務があると説いた。しかしこれは、のちにプロテスタント諸侯がカトリックの皇帝の侵略から領地を守る際の足枷になった。
[8] 帝国騎士(ライヒスリッター) 近世には「フライヘル」と呼ばれるようになる は、帝国直属の身分でありながら、帝国議会での票決に参加する資格がなかった。 下級貴族
マクシミリアン1世の頃に確立された帝国議会の中で、
帝国の南部や西部に多かった。
16世紀初頭に政治的独立を目指す、
ジッキンゲンに率いられ、聖界諸侯領の覆滅を唱えた
あっけない敗北
領邦君主の支配権強化の前に存在が薄い
「永久ラント平和令」で帝国法制上の正規の身分として認められるようになる。
16世紀の後半。 地方ごとに整備区分され、騎士司令官(リッターハウプトマン)がおかれ、所領の内部における領主裁判権や宗教上の罰令権も認められた。軍役と帝国税を免除される代わり、上納金(スプシディア・カリタティヴァ)を皇帝に直接納めた。
ルター主義による改革が1521年から始まる。ヴィッテンベルクで。しかしザクセン選帝侯の思惑に反して、聖画像の破壊など過激にすぎる結果となり、選帝侯はルターを呼び戻して説得させ、これを押さえ込んだ。
「寛容と忍耐」によってじっくり確実な改革を進めようとするルターからすると、急進的で危険な運動。「ヴィッテンベルク騒擾」
騎士階級出身の人文主義者フッテン
騎士たちは領邦国家形成や軍事技術発展のなかで騎士固有の軍事的立場を喪失し、経済的にゆきずまっていった。彼らはカトリック教会体制の動揺につけこみ、聖界諸侯領を世俗化した上で、自分たちの力で帝国改革をはたし地位の回復をはかろうとして騎士戦争を起こした。
1522年9月、軍事指導者のジッキンゲンは、最大の聖界諸侯であったトリーア大司教を攻撃したが敗北。翌年には逆に諸侯軍によって居城を攻撃され徹底的に破壊された。
宗教改革を利用した改革の望みは果たせず、むしろ騎士たちの没落を早めることになった。
フッテンは敗北後、ツヴィングリを頼ってスイスに落ち延び、チューリッヒに行った。そこでチューリッヒ湖のうウーフェナウ島に住み、1523年に病死した。
[15]
フッテンは人文主義者。
人文主義者ははじめ、「僧侶の喧嘩」と冷ややかに眺めていた。
ライプツィヒ討論以降、聖職者の腐敗を攻撃していた。
フッテンはルターに書簡を送り、「どんなことがおころうとも私が傍についております。われらは共通の自由を擁護しようではありませんか」とルター支持を明らかにした。
[12]
ドイツの人文主義の一部は 反聖職者主義 鮮明に打ち出していた
イタリアより遅れて始まり、少し違う形に深化した。ルネサンスの一分野として「源泉にかえれ」だが、その源泉はイタリアの古代ではなく、ドイツの古代である。そのためドイツ史の研究を始めた。愛国主義的になっていった。国民的人文主義。
言語の面での人文主義は、ギリシア語。ラテン語。ヘブライ語の言語を正しく理解し、それを聖書研究にあてようというグループもあった。キリスト教的人文主義。代表がエラスムス。
エラスムスはカトリック教会の教義体系や救済制度に疑問を持つようになり、批判を行った。宗教改革者に影響を与えた。
フッテンは、騎士階級出身。『対話集』(1520)により、愛国主義の立場を鮮明にしつつ、徹底したローマ教会批判。ルターが宗教改革を始める前から、反ローマの機運は広がっていた。
2
ラント平和令に反するジッキンゲンのフェーデを解決したのは、皇帝権でもないし、司法権でもなく、示談だった。 [2]
脚注
注釈
- ↑ 「靴の大きさだけの土地と人民ももたず、一片の土地もかれの名において治められておらず、かれがそこから収入を引き出すこともない[3]」(Johann Jacob Moserによる評)と言われたように、神聖ローマ帝国、もしくは神聖ローマ皇帝は、その帝国域内に対して直轄的な税収や軍事力を有していなかった[3]。ラント平和令と司法権を維持しようにも、そのための財源も人員もなく、司法権を保障するための武力もなく、実効性がなかった[2][4]。
- ↑ が、実際にはその後も相変わらず「フェーデ」は無くならず、その解決も帝国法に基づく司法によってではなく、地元勢力による直談判や武力行使に頼ることになる[2]
- ↑ 帝国騎士(ライヒスリッター)よりもさらに格下の、「ラント騎士(ラントリッター、Landritter)」と呼ばれる階層もあった。
- ↑ マクシミリアン1世の義父で、「豪胆公」と呼ばれたブルゴーニュ公国のシャルルは、1476年に騎士団を伴ってスイスに攻め込み、農民と市民からなる軽装のスイス傭兵に敗れた。当時の騎士は銃弾に備えてあまりにも重い甲冑に身を包んでいて動きが鈍く、シャルルも農民たちに簡単に馬から引きずり降ろされて袋叩きにされた。これが「騎士の終わり」とみなされている。娘婿のマクシミリアン1世は古い騎士道に憧れ、馬上槍試合を好んだが、実際の戦闘では傭兵を用いた[9]。
- ↑ この時点では、ローマ教皇のレオ10世でさえも、アウグスティヌス修道会(ルター)とドミニコ修道会の「修道士どもの口喧嘩」程度のものだとみなしていた[13]。
- ↑ この討論は、熱心なカトリック信者であったザクセン公ゲオルクの主催で、その領地であるライプツィヒで行われたものである。この討論には、カトリック側の弁者としてヨハン・エック、ルター側の弁者としてルター本人とアンドレアス・フォン・カールシュタットが出席した。カールシュタットはヴィッテンベルク大学におけるルターの同僚であり、彼が出席することはルターの教えがルター単独のものではなく、大学の神学部全体で公式に受け入れられていることを示すものだった。エックはルターの主張と15世紀のヤン・フスの主張に共通点があると指摘し、ルターはそれを肯定した。フスは異端とされていたので、カトリック側はこれによってルターも異端であると決め、破門することにした。一方のルター側はカトリック教会との温和な話し合いは不可能とみて決別を決めた[13]。
- ↑ 帝国アハト刑というのは、神聖ローマ帝国内での身の安全を保証しないという刑であり、実質的な追放刑である。しかしルターには既に教会によって異端宣告が成されていたので、身の安全が保証されないどころか、いつ殺されてもおかしくない状況だった。ルターを出したヴィッテンベルクの支配者、ザクセン選帝侯フリードリヒ3世は、ヴォルムス帝国議会のあと騎士にルターを「誘拐」させ、ヴァルトブルク城に匿った。ルターは生死不明、死亡説も流れた。ルターはヴァルトブルク城で「騎士ゲオルク」と名を変えて、聖書のドイツ語訳に取り組むことになる。
- ↑ クライヒガウは現在のカールスルーエから北東へ20キロメートルほどの位置にあった。カールスルーエは1715年に建都された都市であり、騎士戦争の時代には存在していなかった[17]。
- ↑ この脅しによって、ジッキンゲンは帝国侍従の地位を認めさせている。
- ↑ ドイツの南部は、おおまかに西のシュヴァーベン地方と東のバイエルン地方に大別される。バイエルン地方にはバイエルン公国があり、ドイツ南東部からオーストリアにかけての広い地域を支配した。一方シュヴァーベン地方は小諸侯や都市が乱立していた。シュヴァーベン地方の勢力は、バイエルン公国に対抗するために15世紀の後半に同盟を結成した。これがシュヴァーベン同盟である。神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世のとりなしによって両者は和解したが、今度は同盟とヴュルテンベルク公が対立するようになった。
- ↑ 殺されたのはハンス・フォン・フッテンといい、フッテンの従兄弟にあたる。ハンスの妻になった女性が実はヴュルテンベルク公ウルリヒの愛人であり、そのことで揉めた挙句、ヴュルテンベルク公は1515年にハンスを罠にはめて殺害したのだった。
出典
- ↑ 『ドイツ国制史』,p26
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 『ドイツ国制史』,p28-33「1488年から1500年にいたる等族主導の帝国改革」
- ↑ 3.0 3.1 『ドイツ国制史』,p13
- ↑ 『ドイツ国制史』,p88
- ↑ 『ドイツ国制史』,p16
- ↑ 6.0 6.1 6.2 『ドイツ国制史』,p14
- ↑ 『ドイツ国制史』,p39
- ↑ 8.0 8.1 8.2 8.3 『ドイツ史1』p401-402「帝国議会の整備」
- ↑ 9.0 9.1 9.2 9.3 9.4 『若い読者のための世界史』,p219-221
- ↑ 10.00 10.01 10.02 10.03 10.04 10.05 10.06 10.07 10.08 10.09 10.10 10.11 『皇帝カール五世とその時代』,p105-106「騎士戦争」
- ↑ 『ドイツ史1』p349
- ↑ 12.0 12.1 12.2 12.3 12.4 12.5 12.6 12.7 『ドイツ史1』p428-429「人文主義」
- ↑ 13.0 13.1 『はじめての宗教改革』,p57-61「ライプツィヒ討論(1519年)」
- ↑ 14.0 14.1 14.2 14.3 14.4 『ドイツ文学史 原初から現代まで』,p105-106「ウルリヒ・フォン・フッテン」
- ↑ 15.0 15.1 『ドイツ史1』p429-431「マルティン・ルター」
- ↑ 16.0 16.1 『ドイツ史1』p439-441「ヴォルムス帝国議会」
- ↑ 『ドイツ王侯コレクションの文化史 禁断の知とモノの世界』,p245-276「マンハイムとカールスルーエ 驚異の都市計画」
- ↑ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,「エコランパディウス」,コトバンク版,2016年12月18日閲覧。
- ↑ 世界大百科事典 第2版,「エコランパディウス」,コトバンク版,2016年12月18日閲覧。
- ↑ 世界大百科事典 第2版,「改革派教会」,コトバンク版,2016年12月18日閲覧。
- ↑ 『はじめての宗教改革』,p92-93「騎士の乱」
参考文献
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