ニューマーケット

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ニューマーケット(Newmarket)は「世界の競馬の首府」と呼ばれる地である。サラブレッドと近代競馬の発祥の地とされ、現代の競馬のルールの多くがここで作られてきた。

概要

ニューマーケットは、イングランドの中東部に位置し、サフォーク州とケンブリッジ州にまたがっている。ロンドンからは北東に約100キロの距離にあり、いまでは特急で1時間半で着く。

もともとこのあたりは豊かな土地ではなく、荒れ野ヒースだった。というのも、このあたりは氷河時代に海底で堆積した石灰岩(白亜)の土壌で一般的な作物の生育に適さない。雨が少なく粗末な草しか生えない荒野と、泥湿地が入り混じった地形である。一帯は氷河が作ったなだらか丘陵地と、無人の草地がどこまでも続いていた。

が、その草というのが、石灰=カルシウムを豊富に含んでいるので、馬の生育には極めて適していたのだった。おまけに広く緩やかな斜面地は、競走馬のトレーニングや競馬を行うにはうってつけの地形だったのである。しかし人々がそのことに気づくにはかなりの年月を要した。この地域が競馬の最適地として拓かれたのは17世紀初頭である。

最初にこの土地に目をつけたのは、イングランド王ジェームズ1世だった。彼が1603年にニューマーケットを「発見」したのは偶然だった。ジェームズ1世はここを自身の別荘地として整備し、狩猟や競馬、博打と酒と女遊びなど、ありとあらゆる「気晴らしスポーツ」の基地としていった。王に付き従う重臣貴族たちもここに集まるようになり、邸宅街が登場した。現在のニューマーケット競馬場の走路もこの頃に整えられたものがベースになっている。ジェームズ1世の子、チャールズ1世は父以上に「気晴らしスポーツ」にのめりこみ、ニューマーケットはますます発展した。

ところがあまりに遊びすぎたチャールズ1世は、生真面目な「清教徒ピューリタン」の反感をかい、捕らえられて1649年に処刑されてしまう。清教徒革命である。当時、清教徒たちは娯楽の殿堂だったニューマーケットを敵視して破壊した。

それから11年後の1660年、清教徒による共和国政権がおわり、イングランドは外国に亡命していたチャールズ1世の子を王として迎えた。これがチャールズ2世である。チャールズ2世はイングランド王となると、まず最初にニューマーケットの復興に尽力した。ニューマーケットは以前にもまして王侯貴族の娯楽の中心地となった。チャールズ2世はニューマーケットの中心に邸宅を構え、地下通路でつながる隣の館に愛人を住まわせた。