ヨーク・オールバニ公フレデリック・オーガスタス殿下
ヨーク・オールバニ公フレデリック・オーガスタス殿下(HRH Prince Frederick Augustus, Duke of York and Albany、1763年 - 1827年)は、英国王ジョージ3世(在位1760年 - 1820年)の次男である。
父の在位期間が長かったがゆえに、フレデリック王子もまた長く「ヨーク公(第二王子)」であった。ヨーク公に叙されたのは19歳のとき、1784年で、それから43年間「ヨーク公」だった。同時に「オールバニ公(Duke of Albany)」と「アルスター伯(Earl of Ulster)」も兼ねていた。オールバニというのはスコットランドの地名、アルスターはアイルランドの地名である。
フレデリック第二王子は、兄であるジョージ・オーガスタス・フレデリック第一王子(のちのジョージ4世)とともに、青年時代から競馬にのめり込んだ。1816年のPrince Leopoldと1822年のMosesの2回、ダービーを勝っている。
「無能な将軍」のイメージ
フレデリック王子には、「無能な将軍」というイメーじがつきまとう。ヨーク公フレデリック王子は、18世紀末に大陸で起きたフランス革命戦争で、大将としてイギリス陸軍を率い、敗れて撤退する羽目になった。イギリスの童謡に「ヨーク将軍」というのがあって、一説ではこれはフレデリック王子のことを歌っているのだという。
Oh, the brave old Duke of York, おお勇ましい王子さま He had ten thousand man 率いる兵士は1万人 He marched them up to the top of the hill, 丘に登れと登らせて And he marched them down again. 丘を降れと降らせる And when they were up, they were up, 登れといえば丘の上 And when they were down, they were down, 降れといえば丘の下 And when they were only half-way up, 登って降りて They were neither up nor down. いったりきたり
この童謡が史実として本当にフレデリック王子をモデルにしているかどうかは議論が分かれているのだが、一般にはフレデリック王子のことだというのが通説だ。
実際のところ、フランス革命戦争で軍を派遣したのはイギリスだけではなく、オーストリア(神聖ローマ帝国)、プロイセン王国、ロシア帝国も軍を送って敗退している。彼らを撃退したのは革命に湧いた熱狂的なフランス国民軍と、これを指揮したナポレオン将軍であり、イギリスやドイツの連合軍が敗れたのは指揮官の無能さのせいというよりは、もともとイギリス軍にとって不利な条件が重なっていた上、フランス軍が革新的で強すぎたためだ。
ヨーク公フレデリック王子自身が率いた部隊は必ずしも負けたわけでもなく、いくつかの戦いでは勝利をおさめている。クルトレ会戦では4万の連合軍で6万のフランス軍を撃破している。敗れたオンショオット会戦ではフランス軍のほうが、1.7倍もの戦力を有していた。ただ、最後にトゥールコワンでフランス軍8万に対して7万の連合軍で挑み、惨敗してしまったのだ。
主な所有馬
- Prince Leopold - 1816年ダービー
- Moses - 1822年ダービー
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生涯
年表
- 1760年 - 父ジョージ3世が戴冠。
- 1762年 - 兄ジョージ・オーガスタス・フレデリック(のちのジョージ4世)が誕生。
- 1763年 - フレデリック・オーガスタスが誕生。
- 1764年 - 生後6ヶ月でオスナブリュック司教(ドイツ)に就任。
家柄
フレデリック・オーガスタスは、1763年10月16日にハノーヴァー朝大英帝国の国王、ジョージ3世の第二王子として生まれた。
イングランドでは、1603年にスコットランドからジェームズ1世を国王として迎えてスチュワート朝が始り(イギリス競馬はこのスチュワート朝の歴代の王によって大きく発展したことは忘れてはならない)、その統治によってスコットランド王国とイングランド王国が合併して大英王国となった。大英王国は掛け値なしに当時の欧州の最大勢力だった。
その頃のヨーロッパはカトリックとプロテスタントの争いが世紀をまたいで続いており、英国王室もその例外ではなかった。王の結婚や代替わりには常に宗教両派の勢力争いがついてまわる。スチュワート朝の女王アンが嗣子がないまま1714年に崩御すると、次の王を誰にするかでプロテスタントとカトリックの綱引きが始まる。カトリック派が次王として推したのはアンの異母弟のジェームズ(自称ジェームズ3世)だったが、彼はフランス王家の庇護のもとフランスで育っており、英国王に据えた場合フランスになびく危険があると思われた。そこで、プロテスタントたちは、スチュワート朝の始祖ジェームズ1世の子孫で、アンや自称ジェームズ3世からは遠縁にあたる、ドイツ・ハノーヴァー選帝侯のゲオルクを対立候補に立てた。これがハノーヴァー朝の始祖ジョージ1世である。
ハノーファー家の選帝侯ゲオルクがジョージ1世として大英王国の王を兼ねることになり、ここに大英王国とハノーファー選帝侯領の連合が誕生した。名目上は、ハノーファー選帝侯は神聖ローマ帝国の家臣であるが、その頃の神聖ローマ帝国はすでに死に体であり、実態としては大英王国とハノーファー王国の連合帝国といってよい。すなわち18世紀ヨーロッパの最強勢力の誕生である。
もともとドイツ人であるゲオルク(ジョージ1世)はイギリスの統治にはあまり関心を示さなかったのだが、それが結果としてイギリスの議会政治の発展をもたらした。ゲオルク1世にはそのような目論見はなかっただろうけれど、結果から見るとこの「英国への無関心」が、19世紀以降の新しい時代に大英帝国が世界最強国として君臨する土壌を作ったと言える。
ジョージ1世が没するとその子がジョージ2世として即位した。ジョージ2世は長生きしたが、それがゆえに息子のほうが先に死んでしまった。ジョージ2世は77歳のときに急死してしまい、当時22歳の孫が急遽、ジョージ3世としてあとを継ぐことになった。このときジョージ3世はまだ独身だったので、正式に即位する前に大慌てで相手を探し、ドイツ貴族の娘シャーロットと1761年秋に結婚した。
その11ヶ月後に長男(のちのジョージ4世)が生まれ、翌年には年子の弟フレデリックが生まれた。さらに一年あいてシャーロットはウィリアム(のちのウィリアム4世)を産み、その後も毎年のように子をもうけ、21年間で15人の子を産んだ。シャーロット王妃はとても慎ましい女性で、政治や宮廷では一切くちをはさまなかったという。ジョージ3世も勤勉実直な王として国民の人気を博した・・・が、息子たちはそろって放蕩者となった。
オスナブリュックからのお小遣い収入
フレデリック王子は、1763年10月16日に、ハノーヴァー朝英国王室のジョージ3世の次男として、セント・ジェームズ宮殿で生まれた。1764年2月、生後6ヶ月の時点でハノーファー選帝侯領(現在のドイツ北部)のオスナブリュック司教位に就いた。(Hanoverは英語読みでハノーヴァー、ドイツ語読みでハノーファー。)
オスナブリュックはハノーファー地方の代表都市のひとつで、中世ドイツのハンザ同盟を構成し、古くから交易で栄えてきた。その司教位の創設は西暦780年に遡る。17世紀の前半、欧州ではカトリックとプロテスタントが激突する三十年戦争が起きて、ドイツの大部分が荒廃した。しかしオスナブリュックはほとんど被害を受けなかったため、この戦争を集結させるウェストファリア条約締結の地に選ばれた。
そのウェストファリア条約での取り決めの一つとして、オスナブリュック司教位はカトリックとプロテスタントは交代で務めることと定められた。カトリック側はバイエルンのヴィッテルスバッハ家から司教を出すことになっていて、バイエルン選帝侯がその任に就いていた。そのバイエルン選帝侯が1761年2月に死去してオスナブリュック司教位は空位となり、1年後の1762年にプロテスタント側のブラウンシュヴァイク=リューネブルク家(ハノーファー朝の母体)から新司教を出すこととなっていた。
そこへちょうどいいタイミングで、ハノーファー本家に第二王子フレデリックが生まれたのである。そんなわけでフレデリック王子は、0歳6ヶ月でオスナブリュック司教に就任したのだった。むろん、司教と言っても名ばかりであり、まして6ヶ月の赤子に実際に司教として儀式を執行することなどできるわけはない。単にオスナブリュック司教領の領主として、町のあがりを得るだけの職である。このエクストラの収入が、長きに渡り、ヨーク公フレデリック王子の「遊ぶ金」の原資となった。
青年期
1767年、満4歳になるとバス勲章が授けられて騎士団に入団し、1771年(7歳)にはガーター騎士団に名を連ねた。1780年、17歳になったフレデリック王子は軍人としての道を歩み始めることになる。王子は弟たちと一緒にドイツ・ハノーファーに送り込まれ、ゲッティンゲン大学に学んだ。(ゲッティンゲン大学は、ノーベル物理学賞や化学賞の受賞者を無数に出している。)