平出喜三郎(2代目)
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平出喜三郎(2代目)は、北海道・函館の名士である。
初代の平出喜三郎は、北陸の北前船の船主だった。「加賀の橋立三人衆」と称された平出喜三郎は、戊辰戦争(函館戦争)に際して五稜郭の旧幕軍を討つ官軍を助け、砲弾をかいくぐって江差や福山(現在の松前)に軍事物資を届けて功をあげ、財を成した。
初代喜三郎は早い時期から西洋式の蒸気船を購入し、千島国択捉の漁場の権利を購入、奥尻や千島列島などの北洋漁業事業で大成功した。津軽で飢饉がおこると大阪から米百俵を運んで与えたり、千島で難破した船を救出して義捐金を与えるなどの篤志家でもあった。やがて、初代喜三郎は、政友会に属して北海道議会議員や帝国議会の衆議院議員を歴任した。当時北海道からは国会議員が3人しかいないうちの1人である。
初代喜三郎は明治40年(1907年)に死去し、橋立三人衆の一人、久保彦助の四男が養子となって後を継いだ。本馬の馬主である平出喜三郎はこの二代目当主である。
二代目喜三郎は函館新聞社を興し、函館銀行監査役や函館図書館の館長を歴任し、憲政会から衆議院議員となった。二代目は、青森で宝永銅山、奥尻で硫黄鉱山を経営し、北京に競馬倶楽部を設立した事業家でもあった。
所有馬
- プレッチーポリー - 繁殖名は第二カーネーション。帝室御賞典(目黒・1913秋)優勝。