グラフトン公爵3世

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第3代グラフトン公爵(3rd Duke of Grafton、1735.09.28 - 1811.03.14)は、生産者としてサラブレッドの誕生に大きく関わった人物の一人である。息子の第4代グラフトン公爵と共に、ヘロド×エクリプスのニックス配合による競走馬生産に徹底的に拘り、Whaleboneを生産してエクリプス系が世界の主流父系となる端緒を築くと同時に、1号族の牝系の基礎をつくった。

公爵は1760年代後半から1770年頃にかけて、イギリスの首相を務めた(厳密には、「第一大蔵卿」(≒事実上の首相)だった時期と「首相」だった時期がある。)。しかしこれは前任者が職を辞してやむなく就任したもので、公爵自身が望んだものではなかったのではないだろうか。この時期は、対外的にはフランスやハプスブルク帝国との数々の戦争を抱え、イギリスが所有する世界中の植民地でも紛争が絶えず、国内的にもさまざまな問題がある難しい時代だった。グラフトン内閣はこれらの諸問題に対して何もできなかったばかりか、公務よりも競馬を優先させたため、歴代屈指の無能宰相扱いを受けている。でもまあいいじゃないか。

1750年代から馬主としても活躍したが、その全盛期はまだクラシック競走が未整備だったので、クラシック競走優勝回数自体はさほど多くない。それでもダービー3勝は、20世紀のアカ・カーンの5勝を別格とすればトップクラス。オークスも2勝した。セントレジャーには縁がなく、1000ギニー・2000ギニーは1810年代の創設のため出走機会自体がほとんどなかった。

主な生産馬・所有馬

馬名 生産 生年 父馬 母馬 主な勝鞍等
Havannah Jenison Shafto, Esq 1757 Snip Regulus mare 王室賞3勝(SalWinLew
Antinous 1758 Blank Croft's Patner mare 王室賞、大登録SHerodとの2度のマッチレースで有名。
Tyrant ダービー
Pope 1806 Waxy ダービー
Whalebone 1807 Waxy Penelope ダービー
Pelisse オークス
Morel オークス

主な勝鞍

1750年代

1760年代

1770年代

1780年代

1790年代

1800年代

1810年代

馬産

名前、爵位、勲章、役職等

  • オーガスタス・ヘンリー・フィッツロイ(Augustus Henry FitzRoy)
  • 第3代グラフトン公爵(3rd Duke of Grafton)〔1757年 - 1811年〕
  • 第4代アーリントン伯爵 (4th Earl of Arlington)〔1757年 - 1811年〕
  • 第3代ユーストン伯爵 (3rd Earl of Euston)〔1757年 - 1811年〕
  • 第4代セットフォード子爵(4th Viscount Thetford, of Thetford in the County of Norfolk)〔1757年 - 1811年〕
  • 第3代イプスウィッチ子爵(3rd Viscount Ipswich)〔1757年 - 1811年〕
  • 第4代アーリントン男爵(4th Baron Arlington, of Arlington in the County of Middlesex)〔1757年 - 1811年〕
  • 第3代サドバリー男爵(3rd Baron Sudbury)〔1757年 - 1811年〕
  • ガーター勲爵士(KG)〔1769年〕
  • 北部担当国務大臣(Secretary of State for the Northern Department)〔1765年 – 1766年〕
  • 第一大蔵卿(First Lord of the Treasury)〔1766年 – 1770年〕
  • 貴族院院内総務(Leader of the House of Lords)〔1766年 – 1770年〕
  • 首相(Prime Minister)〔1768年10月14日 - 1770年1月28日〕
  • 王璽尚書(Lord Privy Seal)〔1771年 - 1775年、1782年 - 1783年〕
  • サフォーク統監(Lord Lieutenant of Suffolk)〔1757年 - 1763年、1769 - 1790年〕
  • ケンブリッジ大学学長〔1768年 - 1811年〕

年表

  • 1735.09.28(00歳) - 誕生
  • 1741.05.24(05歳) - 父が死去
  • 1751.10.26(16歳) - ケンブリッジ大学に入学
  • 1753.00.00(18歳) - 文学修士(Master of Arts)
  • 1756.01.29(20歳) - 最初の結婚。妻はレーヴェンスワース男爵の娘、アン
  • 1756.00.00(20歳) - ジョージ2世の侍従(Lord of the Bedchamber)となる
  • 1756.12.00(21歳) - 庶民院議員となる(選挙区はヨーク州バラブリッジとサフォーク州ベリーセントエドマンズを兼任)
  • 1757.05.06(21歳) - 祖父の2代グラフトン公爵が没し、爵位を嗣ぐ。貴族院へ移籍。
  • 1757.00.00(21歳) - 名誉職のサフォーク統監に就任
  • 1758.06.00(22歳) - 侍従を辞任
  • 1760.01.14(24歳) - 嫡男ジョージ誕生(後の第4代グラフトン公爵)
  • 1760.10.25(25歳) - ジョージ2世が崩御、ジョージ3世が新国王に即位
  • 1763.00.00(27歳) - サフォーク統監を解任される(七年戦争の講和に反対したため)
  • 1763.00.00(27歳) - ナンシー・パーソンズとの愛人関係が始まる
  • 1763.00.00(27歳) - 牝馬Juliaを購買。1号族の祖。
  • 1763.06.08(27歳) - Havannah王室賞 (ソールズベリー)に優勝。
  • 1763.06.08(27歳) - Havannah王室賞 (ルイス)に優勝。
  • 1763.07.28(27歳) - Havannah王室賞 (ウィンチェスター)に優勝。
  • 1764.01.00(28歳) - アン夫人と別居(アンも不倫をしていた)
  • 1764.10.00(29歳) - Antinous vs Herodのマッチレース(第1回)
  • 1765.05.00(29歳) - Antinous vs Herodのマッチレース(第2回)
  • 1765.07.00(29歳) - 第2代ロッキンガム侯爵の内閣で北部担当国務大臣に就任
  • 1766.04.00(30歳) - 国務大臣を辞任(競馬を優先のためと噂される)
  • 1766.07.00(30歳) - チャタム伯爵の内閣で第一大蔵卿(≒首相)に就任
  • 1767.00.00(31歳) - 別居中のアン夫人が不倫相手の子を妊娠
  • 1767.00.00(31歳) - 愛人ナンシー・パーソンズを公然と伴うようになる
  • 1767.09.00(31歳) - チャタム伯爵が病気のため首相となる
  • 1767.10.14(32歳) - 第3代グラフトン公爵の内閣成立
  • 1769.03.23(33歳) - アン夫人との離婚が議会の正式承認を得る
  • 1769.06.04(33歳) - ロッテスレー準男爵の娘エリザベス嬢と再婚
  • 1770.01.00(34歳) - 内閣総辞職
  • 1770.00.00(34歳) - 神学への傾倒がはじまる
  • 1771.00.00(35歳) - ノース卿内閣で王璽尚書を務める
  • 1774.00.00(38歳) - 英国国教会を離脱
  • 1782.03.00(46歳) - ロッキンガム侯爵内閣で王璽尚書を務める
  • 1802.00.00(66歳) - Tyrantでダービー初優勝
  • 1804.00.00(68歳) - Pelisseでオークス初優勝
  • 1808.00.00(72歳) - Morelでオークス優勝(2回目)
  • 1809.00.00(73歳) - Popeでダービー優勝(2回目)
  • 1810.00.00(74歳) - Whaleboneでダービー優勝(3回目)
  • 1811.03.14(75歳) - ユーストンの自邸で死去

人物

第3代グラフトン公爵は、5歳のときに父を失い、20歳で結婚し、21歳で公爵位を継ぎ、30歳で大臣、31歳で英国首相となった。75歳まで生きた人物としては忙しい前半生である。しかし「英国の宰相」としては頗る評判が悪い。優柔不断で決断できず国政を遅滞させたとか、愛人つくったとか、国政より競馬を優先したとか。

でもまあここは政治サイトではなく競馬サイトなので、外交問題より競馬観戦を優先したっていいよね。自分の持ち馬が出走するなら当然でしょ!と言っておきたい。英国の歴史上の偉大なホースマンはたいてい愛人つくってるし、ふつうでしょ!

競馬史家のピーター・ウィレットは、第3代グラフトン公がとんでもない奇行種だったとしている。「イギリスの奇人の中でも最も風変わりな人物の一人」(one of the most curious of English eccentrics)だそうだ。こうした人物評がイギリスで一般的なのかはよくわからない。ピーター・ウィレットは、その奇行の代表的エピソードとして、自宅からニューマーケットまで18マイル(約30キロ)の並木道を整備させた逸話を紹介するのだが、充分に裕福なホースマンとしては別段驚くような行動ではない、のでは?昨今のアラブのホースマンが20億円出して大レースをやったり、砂漠の真ん中に芝コースの競馬場を作っているのに比べれば。

グラフトン家の若き後継ぎ

グラフトン公爵家はチャールズ2世(在位:1660年-1685年)の庶子を家祖とする。このサイトを訪れた方にとっては常識かもしれないが、チャールズ2世は「陽気な国王メリー・モナーク」と呼ばれた人物で、英国競馬を庇護発展させた人物でもあり、さまざまな遊びを広めた人物でもある。若い頃に清教徒革命によって父を殺され、青春時代を亡命して過ごすことを余儀なくされたチャールズ2世は、王政復古すると、禁欲的な清教徒たちが徹底的に弾圧した娯楽を復活させ、娯楽の先頭に立って競馬や愛人あそびに精をだした。競馬の都・ニューマーケットはチャールズ2世国王陛下によって復興され、こんにちの競馬の発展があるのだ。

チャールズ2世は多くの愛人がいて、(本当に自分の子かどうかもわからないが)庶子をつくり、彼らのために新しい貴族家を創設した。初代グラフトン公爵家もその一つだ。

第3代グラフトン公爵が生まれた1735年は、まだ祖父の第2代グラフトン公爵の時代だった。王室はチャールズ2世直系のスチュワート朝から、ドイツ系のハノーヴァー朝にかわり、ドイツ出身のゲオルク2世(ジョージ2世、在位1727年 - 1760年)が即位してまもなくの時期である。まもなく、神聖ローマ帝国・ハプスブルク家で跡継ぎ問題が発生し、これがヨーロッパ全土を巻き込んだ戦争(オーストリア継承戦争、1740年 - 1748年)に発展する。この争いはもともと、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール6世が、跡継ぎの男子がいないので娘のマリア・テレジアにあとを継がせようとして始まった。フランスは、ハプスブルク家の勢力を削ぐ絶好の機会をみて、この皇位継承に待ったをかけて戦争になった。ドイツに領地をもつハノーバー朝の英国王室は、大陸でのフランスの勢力拡大を防ぎたいという思惑があり、ハプスブルク家に味方した。この戦争は世界中の植民地に波及した。その結果、第3代グラフトン公爵の父は海軍の軍艦の艦長として南米に出征し、コロンビアでの海戦で大敗した末に疫病で死んだ。このとき第3代グラフトン公爵はまだ5歳だった。

ヨーロッパに広がる戦争中に首相となる

祖父の第2代グラフトン公爵が1757年に没すると、21歳にしてイングランド有数の富豪であるグラフトン公爵家を嗣ぎ、第3代グラフトン公爵となった。既に第3代グラフトン公爵は地元サフォーク州の庶民院議員だったが、これ以後は貴族院議員となった。

まもなく、1760年に国王がジョージ3世に代替わりした。ヨーロッパではオーストリア継承戦争が七年戦争に発展する。この戦争では、発展するイギリスに対抗するため、前の戦争では敵同士だったフランスとハプスブルク家が手を組むなど、ヨーロッパ中を巻き込んだ外交が大きな問題となる。この難しい時代にまだ若き第3代グラフトン公爵は内閣に入閣し、やがて首相を任されるようになった。

しかし首相としての第3代グラフトン公爵は悪評がつきまとう。当時は世界各地の植民地政策が問題になり、特にアメリカの植民地に対する強硬派と穏健派が対立した。第3代グラフトン公爵はこの難しい政局を前に、何の決断もできなかった。それどころか、政治をほっぽりだして、愛人と競馬場に行っていた。第3代グラフトン公爵は批判を浴びて袋叩きになり、総辞職した。だが考えてほしい、彼はまだ30代前半だったのだ。気晴らしは必要だし、妻は不平ばかりで不倫している。そりゃあ愛人つくって競馬場に行きたくもなるさ!

第3代グラフトン公爵は75歳まで生きたので、30代半ばにして首相と総辞職を経験しても、まだまだ先は長い。しかし第3代グラフトン公爵は、その後、政治の第一線には顔を出さない。伝えによると、新興宗教にはまり、イギリス国教会を抜けて家族からも白い目で見られた。当の本人は古代の聖書の研究にいれこみ、自費出版した本を友人に配って回って困惑させたという。

「スポーツ」を愛する男

言うまでもなく「スポーツ」という単語はもともと「気晴らし」という意味だった。だから観劇やギャンブルや読書や宴会や愛人遊びも「スポーツ」であった。この意味で、第3代グラフトン公爵はスポーツの偉大な信奉者にして実践者であった。

おそらく当時の貴族はみな似たようなものだったのではないかと思うが、第3代グラフトン公爵の場合、スポーツ嗜好は祖父の第2代グラフトン公から受け継いだものらしい。第2代グラフトン公爵は、キツネ狩りが大好きで、ノーサンプトン州の森で捕獲したキツネを自分の別荘があるウェイクフィールドロッジに放していた。そしてそこでキツネ狩りを楽しみ、シーズンが終わると、温かいサフォーク州ユーストンに移動し、そこでさらにキツネ狩りに打ち込んだ。そのためには猟犬や猟騎馬を移送する必要がある。第2代グラフトン公爵のロンドンの自邸から、これらの狩猟地に行くには、テムズ河を渡る必要があった。犬や馬を連れて河を船で渡るのは大変である。そこで第2代グラフトン公爵は、テムズ河に橋を架ける計画を推し進めた。こうしてできたのがウェストミンスター橋だという。

第3代グラフトン公爵は祖父を見習って狩猟を楽しんだ。成人してジョッキークラブに加入できる年齢に達すると、競馬にはまった。

妻と愛人

第3代グラフトン公爵は、20歳のときに結婚した。美人で気立ての良い妻と評判だったそうだが、夫が「気晴らしスポーツ」に打ち込むのを嫌った。両者はやがて疎遠になり、互いに愛人をつくって不倫するようになった。第3代グラフトン公爵が政治家として上り詰めるちょうどその頃、夫人は幼いむず目を連れて家を出ていった。息子のジョージ(のちの第4代グラフトン公爵)は家に残った。やがて夫人は、愛人の子を妊娠する。これを契機として、第3代グラフトン公爵も愛人を連れて公然と外出するようになった。

こうした家庭不和は、醜聞好きの連中の格好の攻撃材料になった。彼らは、グラフトン公が愛人とどこへ行ったとか、何をしたという話を面白おかしく広めて回った。国難とも言える世界大戦の最中に首相になった若い公爵に対し、こうしたバッシングが容赦なく行われ、グラフトン公爵はますます「気晴らしスポーツ」が必要になってゆく。

さまざまな逸話

第3代グラフトン公爵の関心は、国政よりスポーツにむかっていて、しばしばスポーツを優先したという。

首相在任中のある日、アイルランド問題を討議するため、議会を待たせて、国務大臣シェルバーン伯爵のロンドンの屋敷で閣僚が集って晩餐会を開くことになった。そこへ、首相のグラフトン公爵からの伝言が届く。「明日、ニューマーケット競馬場で自分の馬が出走するので、今夜はあまり遅くまでロンドンに居るわけにはいかない」と書かれていた。

まもなく、2通目の伝言が届いた。それには「ロンドンには戻らず、明日の夜までニューマーケットに居ることにした。」と記されていた。グラフトン公爵は、競馬のあと、愛人を楽しませるために自邸に客を招いて宴会をすることにしたのだった。首相不在のため、内閣は何の決定もできず、ただ無為に公爵の帰りを待つ羽目になった。

のちにこの出来事はオーフォード伯爵(ウォルポール)からの攻撃材料になった。オーフォード伯爵は「グラフトン公爵は、見習騎手のように、売女と競馬のために世界は待たねばならない、と考えている」(The D. of G., like an apprentice, thinking the world should be postponed to a whore and a horse-race.)と揶揄した。

広大な領地にをもつグラフトン公爵は、領地からの収入で毎年9,000ポンド、さらに官職の収入を加えると毎年18,000ポンドの収入があったという。公爵はこの富を、サフォーク州ユーストンの邸宅(ユーストン・ホール)とその牧場の拡充に費やした。あるときグラフトン公爵は、ユーストンの自邸からニューマーケット競馬場まで、自分専用の並木道を整備するよう命じた。自宅から馬や馬車に乗って直接競馬場へ赴くためだった。その距離はおよそ18マイル(約30km)である。

ところが公爵は、この並木道のラスト3分の1、残り6マイルは他人の敷地であるということを失念していたという。結局この並木道は12マイル(約20km)整備されたところで終わってしまった。

1770年ごろから、グラフトン公爵は宗教的思索にふけるようになった。首相として難しい世界情勢のなかでの舵取りを要求され、気晴らしをしては叩かれ続け、救いを求めたのだろうか。ある者は、前半生における放蕩に対する自省として宗教生活に入った、ともいう。牧場と馬産も、息子の第4代グラフトン公爵に任せるようになったと伝わる。しかしこれも世間から揶揄された。世間は「老グラフトン公は神に出会い、若グラフトン公は競馬に出会った」と囃し立てた。


脚注

注釈

参考文献

  • 『Biographical Encyclopaedia of British Flat Racing』Roger Mortimer and Richard Onslow and Peter Willet,Macdonald and jane's,1978,ISBN 0354085360

他記事

メモ

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