カーウェン家

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2020年8月15日 (土) 12:56時点におけるJulyfestival (トーク | 投稿記録)による版 (カンバーランド史)

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カンバーランド州

カンバーランド州はイングランドで最も北西にある州で、北はスコットランドのギャロウェー地方だ。イングランドにとって北の最果てではあるが、西岸海洋性気候のため海岸部の平地はそれなりに暖かく、1月でも平均気温は4度ほど。そのかわり夏は涼しく、7月は平均15度ほどしかない。こうした気候は酪農に適しており、バーデン川がつくった肥沃な沖積平野では古来から牧畜が行われてきた。

景勝地やピーターラビットで有名な湖水地方を含んでいる。1970年代の州の再編で、南隣のウェストモーランド州と合併し、今はカンブリア州になったけども、北の果てという地理から独特の歴史を紡いできた土地だ。

カンバーランド史

紀元前の時代までこの地域はブリトン人らケルト系民族の土地だった。1世紀にローマ人が侵攻、北へ北へと進軍して、いっときスコットランドにまで侵入した。しかしカレドニア人(ケルト人)に押し戻され、カンバーランドがローマ帝国とカレドニア人の国境になった。ローマ人はここに長城を築き、カレドニア人が南下してくるのを防ごうとした。

4世紀から5世紀にかけて、ゲルマン民族の大移動によってローマ帝国が瓦解した。ローマ人はこの土地から去ったが、いれかわりで、北からはカレドニア人(スコットランド人)、南からはサクソン人らが侵攻してきた。カンバーランドのブリトン人は、湖水地方の山岳地形を活かして侵略者に対抗し、数世紀にわたり独自の王国を維持した。しかし945年、カンバーランド王国の最後の王、ダンメイル王が、湖水地方の峠道でスコットランドとサクソン人の連合軍を相手に戦い、敗死したという。合戦のあと、スコットランドの王とサクソンの王は、この峠をお互いの王国の国境にした。(これはのちにカンバーランド州とウエストモーランド州の境になった。)以後、カンバーランドはスコットランド王国領になった。

1066年にフランスのノルマンディー地方からノルマン人の王ウィリアム1世がブリテン島に侵攻し、イングランドを征服した。この時代もカンバーランドはスコットランド王国領のままだった。だがあとを継いだウィリアム2世は、カンバーランドをスコットランドから奪い取り、カーライル伯爵位を新設し、その領地とした。これに対し12世紀前半、ノルマン王家の後継者争いが起きると、その間隙をついてスコットランドがカンバーランドを奪い返した。イギリスで新たにプランタジネット王家が誕生すると、王はスコットランドに圧力をかけ、カンバーランドを返還させた。

こうした奪い合いに終止符をうったのが、イングランドの長脛王Longshanksエドワード1世(在位:1272-1307年)だ。エドワード1世は1280年代にウェールズを攻め滅ぼしてイングランド王国に併合し、ついで1290年代にスコットランド征服に乗り出した。エドワード1世はスコットランド王家の後継ぎ問題にうまく介入し、自身の傀儡をスコットランド王に据えると、イングランドへの忠誠を誓わせて事実上の臣下とした。

スコットランドの貴族たちは、エドワード1世から甘い汁を吸わされており、彼らもイングランドの手先にになってスコットランドの民に苛政を敷いた。このとき立ち上がったのが、メル・ギブソンの『ブレイブハート』という映画の主人公にもなった、伝説的英雄ウィリアム・ウォーレスだ。ウォーレスは、非協力的なスコットランド貴族を尻目に、スコットランドの民衆を率いてイングランドに戦いを挑み、イングランドの鎮圧軍を破った。

港町ワーキントンのカーウェン家

ワーキントンは、湖水地方を水源とするダーウェント川の河口にひらけた港町だ。ローマ時代には、カレドニア人(スコットランド人)の侵攻に備えて砦や物見塔があったという。しかし港町の由緒についてあまり詳しいことは判っていない。遺跡からバイキングの剣が出土しており、バイキング時代に襲われたことがあるのだろうと考えられている。

カーウェンという家名は、12世紀前半まで遡る。ちょうどイングランド王国とスコットランド王国がカンバーランドを奪い合っていた時期だ。ワーキントン一帯を治めていたゴスパトリック家から分家して、ド・カルウェン家(de Culwen)が登場する。その何代目かにギルベール・ド・カルウェン2世(Sir GilbertⅡ de Curwen)という当主がいる。

その頃、ウィリアム・ウォーレス率いるスコットランド叛乱軍がイングランド北部で暴れまわっていた。エドワード1世はフランス遠征中だったが、討伐軍が敗れたとの報せを受け、一軍を率いて戻ってきた。イングランド軍はウィリアム・ウォーレスの叛乱軍と対峙するが、遠征疲れがあり、勢いにのる叛乱軍の前にいささか形成不利だった。

そこへ援軍として駆けつけたのが、ギルベール・ド・カルウェン2世率いるカンバーランド兵だった。彼らは招集されたばかりで精強だった。この援軍によって、エドワード1世のイングランド軍はファルカークの戦いで勝利をおさめたという。叛乱軍は意気消沈してすっかり勢いを失い、やがてスコットランド人はウィリアム・ウォーレスをイングランドへ差し出して赦しを乞うことになった。

以来、カーウェン家の家訓モットーは「Si je n'estoyもし我らがいなければ」だという。

カーウェン家の生産馬・所有馬

カーウェン家の人物