ヨーク金杯

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ヨーク競馬場のGold Cup

濫觴

前史

 イングランドの競馬は、大まかにいうと北イングランドと南イングランドに分かれていた。ヨーク付近での競馬がいつから行われていたかははっきりした記録を欠くが ― 西暦208年にローマ皇帝がヨークの南に広がるネーヴスミア野で開催した戦車競馬チャリオットを「イギリスでの競馬のはじまり」とする歴史家もいるが、それはさておき ― 1530年には、ヨークの町の北にひろがるガルターズ森フォレスト・オブ・ガルターズ気晴らしスポーツのために開放されていたという記録がある。16世紀の歴史家のウィリアム・カムデンは1590年の著書『ブリタンニア(Britannia)』のなかで、ガルターズの森には古くから常設の競馬場があったと伝え、大観衆が集まって巨額の賭けが営まれ、勝ち馬には賞品として金の鈴が与えられていたと証言している。

 このほかわかっているだけでも、北イングランドのヨーク州では、リッチモンドハンブルトンドンカスターバラブリッジなどでは1590年代までに競馬が定期的に行われていたという記録がある。

 1603年にジェームズ1世がイングランドの新王としてスコットランドから迎えられると、王はイングランド東部のニューマーケットを娯楽の中心地として整備した。チャールズ1世がピューリタンによって殺害され、悪名高いクロムウェルによる独裁政治が敷かれた間に一時的に競馬は衰退したが、王政復古によってチャールズ2世が戴冠すると、競馬は以前にもまして盛んになった。

 ニューマーケットではチャールズ2世が下賜する賞品プレートを争う「ニューマーケット・タウン・プレート」が開催されるようになった。1675年にはチャールズ2世自身が出走し、優勝した。この競走は定量で、4マイルのヒート戦で争われた。これがのちの王室賞の前身となった。

1709年

 ヨークでは、町の北に位置するクリフトン(Clifton)とロークリフ(Rawcliffe)のあたりにある原っぱを「クリフトン・周辺地イングス」と呼んでいて、ここで競馬をやっていた。発走地点と検量所が完備され、走路の両側には白く塗られた標識を設置して、まさに「競馬場」として整備されていた。1845年の『Baily's Racing Register』は、1727年に刊行された『英国競馬成績書レーシング・カレンダー』よりも18年も前、1709年からの競馬の記録を掲載していて、同書に掲載された最古の競馬が1709年のクリフトン・イングス競馬だ。これが「ヨークでの正式競馬」の始まりとされている。

 その記録では、1709年9月13日火曜日、「A Gold Cup」(金杯競走)というレースが行われた。これは、「スターリング・ポンド金貨50枚ぶんの値うちのある金杯」を争うもので、6歳馬による、定量12ストーンの、4マイルのヒート競走だった。当サイトではこれを「第1回ヨーク金杯」として扱う。

 別の伝えによると、翌週9月21日水曜日に「距離4マイルのヒート戦」が「クリフトン・イングスで初めて」開催されたという。証言に1週間のズレがあるのがよくわからない。それぞれ別のレースなのかもしれないし、同一のレースで、いずれかが日付を誤っているのかもしれない。どちらにせよ、この4マイル戦をやるために、わざわざ地元の名士ウィリアム・ロビンソン卿が、自費でクリフトンとロークリフのあいだに幅9ヤード(約8.3メートル)の石造りの橋を架けたという。

1710年

 翌1710年にも同じレースが組まれた。8月7日月曜日の「A Gold Cup」(金杯競走)がそれで、賞品は前年よりちょっとグレードアップして、「スターリング・ポンド金貨60枚ぶんの値うちのある金杯」になった。条件は前年と同じ、6歳馬による、定量12ストーンの、4マイルのヒート競走だった。ところが、これに年下の5歳馬Brown Lustyがエントリーして、12ストーンを背負って優勝してしまった。これが、のちにBay Boltonと改名し、種牡馬になって7回リーディングサイヤーに輝くことになる。

 別の資料、1803年刊行の『The Turf Register』(ウィリアム・ピック編)では、この1710年のレースを「Queen Anne's Gold Cup」(アン女王金杯)と表現していて、金杯の出どころがアン女王陛下だとしている。アン女王陛下は、夫のジョージ殿下とともに競馬の愛好者で、1708年に夫と死別してからは増々競馬にのめり込んだと伝わる。不明瞭だがアン女王が金杯を下賜したのは1709年からだとする文献もある。

1711年

 『Baily's Racing Register』には、1711年からは「Her Majesty's gold Cup」(女王陛下の金杯競走)と、「A Gold Cup」(金杯競走)が、完全に別々の競走として開催されたことが明記されている。1840年刊行の『A History of the British Turf』(ジェームズ・C・ホワイト著)では、アン女王が1711年から毎年ヨークに金杯を下賜したとしている。同年にはアン女王によってアスコット競馬場も創始されている。

 「Her Majesty's gold Cup」(女王陛下の金杯競走)は、8月6日月曜日に行われ、6歳馬による、定量12ストーンの、4マイルのヒート競走だった。賞品は「ニューマーケット金貨100枚分の値うちのある金杯」。ニューマーケット金貨はギニー金貨のことで、100ギニーは105ポンドに相当するから、前年の「60ポンドの金杯」と較べると価値は1.75倍になっている。当サイトではこれを「第1回ヨーク王室賞」として扱う。

 「A Gold Cup」(金杯競走)は、8月9日木曜日に行われ、6歳馬による、定量11ストーンの、4マイルのヒート競走だった。負担重量が1ストーン軽い点以外は、王室賞と同条件だ。賞品は「ニューマーケット金貨60枚分の値うちのある金杯」で、スターリング・ポンド金貨に換算すると金貨63枚に相当するから、金貨3枚ぶんだけ前年よりアップしている計算になる。当サイトではこっちをヨーク金杯として扱っている。

 これ以後毎年、「金貨100枚相当の金杯」のヨーク王室賞と「金貨60枚相当の金杯」のヨーク金杯が開催されるようになった。負担重量が異なる点以外は、距離4マイル・馬齢6歳限定・ヒート方式というのは共通だ。

 当サイトでは前者を「王室賞」、後者を「ヨーク金杯」として扱うが、1709年と1710年の開催はビミョーだ。この2年間のレースは、「王室賞とヨーク金杯に分かれる前の前身的レース」といったところかもしれない。

18世紀

1700's

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1705 ' '
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1707 ' '
1708 ' '
1709 09.13
(火)
4 miles ヒート戦 £ 50 Wart 6 bay 不明 Mr.Metcalfe
(6437m)

1710's

1710 08.07
(月)
4 miles ヒート戦 £ 60 Brown Lusty 6 brown Grey Hautboy Sir Matthew Pierson
(6437m)
1711 08.08
(木)
4 miles ヒート戦 60 gs Mustapha 6 gray ' カーライル伯爵3世
(6437m)
1712 07.31
(木)
4 miles ヒート戦 £ 60 Black Nanny 6 black ' Mr.Carr
(6437m)
1713 08.06
(木)
4 miles ヒート戦 £ 60 Betty 6 sorrel※ ' Mr.Davison
(6437m)
1714 08.02
(月)
4 miles ヒート戦 £ 60 Chance 6 ch ' Mr.Stapleton
(6437m)
1715 08.29
(月)
ヒート戦 £ 60 Whitefoot 6 ch Hutton's Grey Barb ラトランド公爵2世
1716 08.23
(水)
4 miles ヒート戦 £ 60 Creeping Kate 6 gray ' Lord Barrymore
(6437m)
1717 08.01
(木)
4 miles ヒート戦 £ 60 Brocklesby Betty 6 ch Curwen's Bay Barb Mr.Pelham
(6437m)
1718 08.14
(木)
4 miles ヒート戦 £ 60 Creeper 6 ch ' Mr.Hildyard
(6437m)
1719 08.12
(水)
4 miles ヒート戦 £ 60 Singlepeeper 6 bay Bethell's Arabian Mr.Routh
(6437m)

※「sorrel」は現代では「(赤みを帯びた)栗色」のことだが、17世紀には「赤茶」=鹿毛の意味で用いられていた。ここでの語義は不明だが、同年の他馬では「chesnut」(栗毛)も「bay」(鹿毛)も用いられているので、栗毛と鹿毛とは別の毛色として認知されていたのかもしれない。

1720's

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1760's

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1770's

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1780's

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1790's

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