大ジェームズ・ダーシー

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大ダーシーことジェームズ・ダーシー(James D'Arcy the Older、1617 - 1673)は、ヨーク州北部に本拠をおいた馬産家である。チャールズ2世の王室牧場長として知られる。

息子も同名のジェームズ・ダーシー(James D'arcy the Younger、1650-1731)というので、両者を「大ダーシー」「小ダーシー」といって区別する。大ダーシー、小ダーシーとも競馬史の重要人物だ。これに加えて、大ダーシーの兄コンヤーズ・ダーシー(初代ホルダネス公爵)も競馬史の重要人物である。ダーシー家は、10世紀のノルマン・コンクエストの時代まで遡る家柄であるが、薔薇戦争の頃に家がヨーク党とランカスター党に分裂し、ダーシー男爵家とコンヤーズ男爵家にわかれた。それが17世紀に合一し、コンヤーズ=ダーシー家となった。この長く複雑な家の歴史を通じて、ダーシー家はヨーク州北部に所領を増やしていき、サラブレッド生産の黎明期には重要な役割を果たすことになった。

王室牧場長となる

イングランドでは、清教徒革命による短い混乱時代のあと、1660年に王政復古があり、清教徒に惨殺されたジェームズ2世の王子、チャールズ2世が新国王となった。チャールズ2世は父の影響で競馬好きだった上、若い頃から長くフランスでの亡命生活を送りフランス風の馬術教育も受けていた。

そんなわけでチャールズ2世が王位につくとまず、狂信的な清教徒たちピューリタンによって破壊されていた王室牧場の復興を命じた。これを命じられ、新時代の王室牧場長に命じられたのが、大ダーシー(ジェームズ・ダーシー)であった。大ダーシーは、王室から「陛下のためにタットベリーの王室牧場へゆき、かつての姿に戻し、陛下のためにまた名馬を輩出できるようにせよ」と命じられた。トマス・モーガン少将(Major-General Thomas Morgan)は大ダーシーに、「なにか困ったことがあったらトマス・モーガン将軍の名を出せ」と申し添えたという。

ところが、大ダーシーが実際にタットベリー王室牧場に行ってみると、そこは想像以上に破壊と略奪を受けていた。


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