ティーノソ
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{Short description|American-bred, British-trained Thoroughbred racehorse}}
{Use British English|date=May 2022}}
{Infobox racehorse
| horsename = Teenoso
| image_name = 120px
| caption = Racing silks of Eric B. Moller
| sire = Youth
| grandsire = Ack Ack
| dam = Furioso
| damsire = Ballymoss
| sex = Stallion
| foaled = 7 April 1980
| country = United States
| colour = Dark bay or Brown
| breeder = Eric B. Moller & White Lodge Stud
| owner = Mollers Racing
| trainer = Harry Wragg
Geoff Wragg
| record = 13: 6-1-3
| earnings =
| race = Lingfield Derby Trial (1983)
Epsom Derby (1983)
Ormonde Stakes (1984)
Grand Prix de Saint-Cloud (1984)
King George VI and Queen Elizabeth Stakes (1984)
| awards= Timeform best middle distance horse (1984)
Top-rated European older horse (1984)
Timeform rating: 135
| honours =
| updated=
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ティーノソ(Teenoso、1980年4月7日生まれ、1999年10月4日没)は、アメリカ産・イギリス調教のサラブレッド競走馬である。2歳時には目立たたなかったが、3歳(1983年)の春にダービートライアルステークス(G3)を勝って頭角を表すと、英国ダービーに優勝、鞍上のレスター・ピゴット騎手に英国クラシック競走9勝目をもたらした。この年ティーノソはその後2戦して勝てなかったが、古馬になってオーモンドステークス(英G3)、サンクルー大賞(仏G1)に勝ち、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス(英G1)も勝って引退した。種牡馬としては期待外れに終わった。
目次
出自
ティーノソは、濃い目の鹿毛の牡馬で、額と左後脚には小さな白斑(星・肢部参照)を持つ。アメリカ合衆国ケンタッキー州産で、生産者・馬主はラルフ“バッヂー”モラーとエリック・モラーの兄弟。
現役競走時代の毛色は「bay」(鹿毛)だったが[1]、種牡馬になるときに「dark bay or brown」(黒鹿毛ないし青鹿毛)に修正された[2]。
ティーノソは、父馬ユース(1976年のフランスダービーとワシントンDC国際招待の優勝馬)の裁量の産駒である。
母馬フリオーソ(Furioso)は1974年の英オークスの2着馬。母の産駒トプシー(Topsy)は1979年にサンチャリオットステークスとアスタルテ賞(現在のロートシルト賞)に勝ち、英1000ギニーで2着になっている。
母フリーオソも、ティーノソも、モラー兄弟が繋養していた繁殖牝馬ホラマ(Horama)を祖とする多くの活躍馬のうちの一頭であある。
この一族には、愛1000ギニーとケンブリッジシャーHの勝馬ラクエル(Lacquer)、同じく愛1000ギニー優勝馬のファヴォレッタ(Favoletta)、コロネーションステークス勝ちのソヴリン(Sovereign)、ケンブリッジシャーH勝ちのヴィオレッタ(Violetta)がいる[1]。
ティーノソは、サフォーク州ニューマーケットのアビントンプレース厩舎(Abington Place stables)のハリー・ラッグ調教師のもとへ送りこまれた[3]。
Racing career
1982年 2歳時
ティーノソは1982年に2歳になったものの、大した活躍はできなかった。8月、ニューマーケット競馬場での6ハロン(約1207メートル)のデビュー戦では着外に終わり、一ヶ月後のドンカスター競馬場での7ハロン戦(約1408メートル)でも着外だった。
ティーノソは2歳時の最終戦では、少し良くなったところをみせ、馬場が渋ったニューマーケット競馬場で4着に入った[4]。
結局、このシーズンは収得賞金262ポンドで終えた。シーズン後、調教師のハリー・ラッグは引退し、息子のジェフ・ラッグ(Geoff Wragg)が後を継いだ。[3]
1983年 3歳時
3歳時の緒戦はヘイドック競馬場での未勝利戦(maiden)で、10ハロン(約2011メートル)で2着に入った。
前走から11日後、ニューマーケット競馬場の1マイル半(約2414メートル)・不良馬場の未勝利戦で、ティーノソは初めて秘められたた能力の片鱗をみせた。
ティーノソはゴール前3ハロン(約603メートル)で先頭に立つと、後続を突き放して8馬身差で楽勝してみせた。
この1983年の春は、例年よりも冷えて雨が多い年で、多くの競走馬が調整にもたついたり、例年よりも水を含んで重くなった馬場に苦しんでいた。
この天候のせいで、ティーノソの次走と目されていたチェスターヴェースなどのダービーの前哨戦のいくつかは中止に追い込まれ、ダイイシス・ダンビース(Dunbeath)・ゴライタス(Gorytus)など前年2歳シーズンの上位馬の中には調子を崩すものもでた。[4]
ティーノソは重馬場に適しているとみなされるようになり、5月のリングフィールド競馬場のダービートライアルステークスでは3番人気となった。ティーノソはゴール前5ハロン(約1005メートル)で先頭に出ると、そのまま2番手のShearwalkに3馬身差をつけて勝った。[1]
英国ダービー8勝を誇るレスター・ピゴット騎手が、ダービーでの騎乗馬にティーノソを選ぶと馬券の人気が集まり、9対2(5.5倍)で21頭中の本命馬になった。
この年のエプソム競馬場は長年のなかで最も馬場が重たくなった[5]。ティーノソは、発走直後から先頭集団につけた。
最後の直線に入るとまもなく、ピゴット騎手に促されてティーノソが先頭に立つと、あとは脅かされることはまったくないまま、3馬身差をつけて優勝した。2着にはアイルランド調教馬のカーリングフォードカッスル(Carlingford Castle)が入った。勝ちタイムは2分49秒7で、20世紀の英国ダービーでもっとも時計のかかったレースとなった。[6]
3週間半の後、アイルランドカラ競馬場の愛ダービーでは、英国ダービー馬ティーノソと仏国ダービー馬カーリアンの対決となった。道悪だったエプソム競馬場とは対照的に、アイルランドの馬場は堅く、ティーノソには不向きだったようで、快勝したシャリーフダンサー、2着カーリアンに遅れて3着に終わった。
このあとティーノソは9月のドンカスター競馬場でのセントレジャーへ向けて調整に入った。
8月、前哨戦のグレートヴォルティジュールステークス(ヨーク競馬場)では期待を裏切り、シーモアヒックス(Seymour Hicks)とダザリ(Dazari)に敗れ3着におわった。
レースを終えて戻ってきたティーノソは、左後脚に疲労骨折と思しき故障が見つかった。
この故障でティーノソの競走生命は絶たれたかに思われたが、しばらくすると、怪我は当初の見立てほど深刻ではないことがわかり、秋終盤には調教を再開することが可能となった。[1]
1984年 4歳時
ティーノソの4歳緒戦は、4月のニューベリー競馬場のG3戦ジョンポーターステークスになった。
ティーノソは本命馬だったが、8ヶ月ぶりの出走で、ゲイレマー(Gay Lemur)とダザリ(Dazari)に遅れて3着に終わった。ダービー勝ちのティーノソは、先着した2頭よりも重い斤量を背負わされていた。
5月には、ペースメーカーの僚馬ミルプランテーション(Mill Plantation)とともに、チェスター競馬場のG3戦オーモンドステークス(en:Ormonde Stakes)に出走した。
ティーノソはゴール前3ハロン(約603メートル)で先頭になり、ケアプール(Khairpour)に1馬身半差をつけて楽勝した[7]。
英国ダービー馬が古馬になって勝鞍をあげるのは、1975年の勝馬スノーナイト(en:Snow Knight)以来のことで、ヨーロッパ全体でみると1973年にコロネーションカップに勝ったロベルト以来となった。
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- 訳注 スノーナイトは1974年の英国ダービー馬。古馬になってアメリカに渡り、4歳時(1975年)にマンノウォーS米G1などに勝った。ヨーロッパでは出走せず。ヨーロッパで実施される古馬戦に限るとロベルトまで遡る。
- 以後の英国ダービー勝馬は、1975年グランディ・1976年エンペリー・1977年ザミンストレル・1978年シャーリーハイツ・1979年トロイは3歳で引退、1980年ヘンビットは古馬になって2戦0勝、1981年シャーガーはセントレジャーを最後に行方不明、1982年ゴールデンフリースはダービー優勝後引退。
ティーノソの次戦は、1983年の愛ダービー以来のG1競走となる、フランスのサンクルー大賞になった。
ピゴット騎手はティーノソを4番手に位置させ、直線を待った。
ティーノソは直線で先頭に立つと、いったんは他馬を2馬身引き離した。ゴール前で人気薄のフライミー(Fly Me)がクビ差まで迫った。
レースの直前、ティーノソは頭を後ろにむけて、ピゴット騎手の顔にぶつけ、そのためピゴット騎手は右目を負傷し、ひどく出血しながらの騎乗だった。[7]
この勝利は、良馬場での初めての勝利となり、ティーノソは柔らかい馬場でないと本領を発揮できないという意見を払拭するものとなった。
7月末、英国の馬齢重量戦の最高峰、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスに出走、ティーノソは13頭中13対2(7.5倍)の人気となった。アスコット競馬場は、前走同様、堅い馬場となった。
前年からの連覇を狙うタイムチャーター(en:Time Charter)が一番人気で、ダルシャーン、サンプリンセス(en:Sun Princess (horse))、*トロメオ(en:Tolomeo (horse))、サドラーズウェルズ(Sadler's Wells)などが揃った。
ピゴット騎手に促されて、ティーノソはスタートから先頭を奪うと、サンプリンセスのペースメーカーであるヒズオナー(His Honour)と並んで進んでいった。
ティーノソは半馬身のリードを保ったまま最終コーナーをまわって、直線に向くと、後続に差をつけはじめた。
ティーノソを追ってきたのはサドラーズウェルズだけで、最後の1ハロンで伸びてきて1馬身差まで迫った。しかしティーノソは再び脚を使うと2馬身半まで差をつけて勝った。[7] 勝ちタイムは2分27秒95で、レース史上2番めの好タイムとなった。[4]
ティーノソはこのあと、10月のロンシャン競馬場の凱旋門賞に狙いを定めた。
ティーノソは事前の早売り馬券では9対4(3.25倍)の1番人気だったが、凱旋門賞の3日前になって、右前脚に軽度の故障がみつかった。
獣医の助言に従って凱旋門賞を取り消し[7]、現役を退いて種牡馬となった。
評価
タイムフォーム誌によるレーティングでは3歳時(1983年)が132[1]、4歳時(1984年)が135である。4歳時はタイムフォーム誌による中距離チャンピオンに選ばれた。
1984年のインターナショナル・クラシフィケーションではティーノソは欧州古牡馬部門の首位に選出、全年齢ではエルグランセニョールに次ぐ2位にランキングされた。[7]
Racegoers' Clubが実施した投票による英国年度代表馬選出では、ティーノソは2歳馬プロヴィデオ(en:Provideo)に17票対6票で敗れ、2位だった。[8]
タイムフォームのレーティングに基づいた、 ジョン・ランダル(John Randall)とトニー・モリス(Tony Morris)の共著“A Century of Champions”では、ティーノソは英国ダービー馬のなかで「優」(superior)にランキングされている。[6]
種牡馬として
ティーノソは、ハイクレアスタッド(Highclere Stud)で種牡馬入りしたのだが、配合相手に恵まれず、種牡馬として成功したとは考えられていない。[9]
代表産駒は、おそらく、G3競走を含む8勝をあげたヤングバスター(Young Buster)であろう[10]。このほか、平地競走で活躍したものとしては、ハンザ賞勝ちのカールトン(Carlton)、フォルクス銀行ライフアイゼン銀行杯(Team Trophy der Volksbanken und Raiffeisenbanken)勝ちのスターレット(Starlet)がいる。
ティーノソは、のちにシュロップシャーシュロップ州のシェイドオークスタッド(Shade Oak Stud)、さらにドーセット州シェアボーンのピッツファームスタッド(Pitts Farm Stud)に移った。
種牡馬としてのキャリアの晩年は、種付け料が1000ポンドで、もっぱらナショナルハント競馬(障害競走参照)用の種馬として供用された。
スティープルチェイス競走(障害競走参照)での最良の産駒はヤングスパルタカス(Young Spartacus)で、Mildmay of Fleteハンデチェイス(en:Mildmay of Flete Handicap Chase)やレーシングポストチェイス([[:en]Racing Post Chase|Racing Post Chase]])に勝った。このほかホラス(Horus)はボーダフォン金杯(Vodafone Gold Cup])に勝った。[11]
- ※注 HorusのVodafone Gold Cup Handicap Chase(LR)は、1着同着だった。
1999年秋、ティーノソの血栓症が悪化し、10月4日にピッツファームスタッドで安楽死の処置が執られた。[9]
Pedigree
Teenoso (USA), bay or brown stallion, 1980[2]の血統 | |||
父 Youth (USA) 1973 |
Ack Ack (USA) 1966 |
Battle Joined | Armageddon |
Ethel Walker | |||
Fast Turn | Turn-To | ||
Cherokee Rose | |||
Gazala (FR) 1964 |
Dark Star | Royal Gem | |
Isolde | |||
Belle Angevine | L'Amiral | ||
Bella | |||
母 Furioso (GB) 1971 |
Ballymoss (GB) 1954 |
Mossborough | Nearco |
All Moonshine | |||
Indian Call | Singapore | ||
Flittemere | |||
Violetta (ITY) 1958 |
Pinza | Chanteur | |
Pasqua | |||
Urshalim | Nasrullah | ||
Horama (Family 3-c)[12] |
脚注
注釈
出典
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 テンプレート:Cite book
- ↑ 2.0 2.1 テンプレート:Cite web
- ↑ 3.0 3.1 テンプレート:Cite web
- ↑ 4.0 4.1 4.2 テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 6.0 6.1 テンプレート:Cite book
- ↑ 7.0 7.1 7.2 7.3 7.4 テンプレート:Cite book
- ↑ テンプレート:Cite book
- ↑ 9.0 9.1 テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
<references>
で定義されている <ref>
タグに name 属性がありません。
{Epsom Derby Winners}}
{King George VI and Queen Elizabeth Stakes Winners}}
[Category:1980 racehorse births]] [Category:1999 racehorse deaths]] [Category:Racehorses bred in Kentucky]] [Category:Racehorses trained in the United Kingdom]] [Category:Thoroughbred family 3-c]] [Category:Epsom Derby winners]] [Category:King George VI and Queen Elizabeth Stakes winners]]