Kiwiガチ版
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目次
冒頭文
概要
血統
父系
父馬のブラーニーキス(Blarney Kiss)はアメリカ産のサラブレッドで、アメリカで36戦11勝をあげ、9万7,009米ドルを稼いだ[1]。主な勝鞍に1968年のミシガンダービー(Michigan Derby)、フェアモントダービー(Fairmont Derby)、ミシガンダービートライアルハンデ(Michigan Derby Trial H)がある[1]。1976年の種付料は800NZドルだった[1]。
その父アイリッシュランサー(Irish Lancer)はロイヤルチャージャー(Royal Charger)の直仔で、2歳時(1959年)にサラトガスペシャル(Saratoga Special S)に勝っている[1]。アイリッシュランサーの全姉のイドゥン(Idun[注 1])は全米3歳牝馬チャンピオンである[1]。ロイヤルチャージャー系では、ロイヤルチャージャーの直仔でイギリス産のコペンハーゲンⅡ(CopenhagenⅡ)がニュージーランドへ輸出され、ニュージーランドのリーディングサイヤーになっている[1]。
母系
生産関係
- South Taranaki で生産[2]
Dargaville 在住のBrian Fischer(ブライアン・フィッシャー)。キーウィの生産者。生産地は、Dargavilleの北8kmにあるParore。「伝説的な」( legendary)1983年の優勝馬キーウィの生産者[3]
馬主・調教師
- アンはダーガビル生産の1歳馬を1000ドルで購入[4]
- 「キウイ」と命名。のちにそれがニュージーランドの象徴になるとは考えてもいなかった[4]
- はじめ、キーウィは、Whanganuiの北西にあるSouth TaranakiのWaverleyのラプトンの農場で、羊を集める(round up sheep)のに使われていた。[4]
- スノー氏は、キーウィにステイヤーとしての資質を見出した。[4]
- 調教メニューの一環として、「羊を集める(round up sheep)」ことも続けた。[4]
- 数年後、ラプトンは、1983年1月のトレンサム競馬場のウェリントンカップに登録した。[4]
人物C
戦績
デビュー前
1980/81(2歳時)
1981/82(3歳時)
1982/83(4歳時)
ウェリントンC
- Mr & Mrs ES Lupton、JA Cassidy、
3.20.29、調教師はES Lupton[5]
- 馬主はE.S.ラプトン夫妻、騎手はJ.A.キャシディ、調教師はE.S.ラプトン[5]
1983/84(5歳時)
メルボルンC
- 11月第1火曜日のメルボルンカップデーは、「ニュージーランドとオーストラリアの2カ国が停止する日」[2]
- 最後方からの追い込みで勝利[2]
- 残り1200メートルで30馬身差からの逆転劇[2]
- 史上最高の勝利の一つ[2]
- 出走馬は24頭[2]
- 毎年「春」(11月)のメルボルンカップが近づくと、キーウィの話題で盛り上がる[2]
- 毎年のメルボルンカップの金製優勝杯は、事前にオーストラリアとニュージーランドの各地でお披露目される。2012年には、ニュージーランドのDargavilleで公開された。[3]
- Dargaville 在住のBrian Fischer(ブライアン・フィッシャー)が招かれた。キーウィの生産者。生産地は、Dargavilleの北8kmにあるParore。「伝説的な」( legendary)1983年の優勝馬キーウィの生産者[3]
- 騙馬キーウィが目覚ましい勝利[4]
- 11月第1火曜日のメルボルンカップは、「国が5分間停止する」と言われる[4]
- 2200メートル地点=ゴールまで残り1000メートルで、キーウィは最後方にいた。[4]
- ニュージーランドの騎手ジム・キャシディに導かれ、そこから22頭を抜き去り、外へ持ち出して、1馬身差で勝利。[4] ※1頭は故障で脱落
- 最後方からの「 breath-taking burst 」息を呑むような豪脚[4]
- 最後の直線でのキーウィがあまりにも素早かったので、実況はキーウィを決勝線寸前まで気がつかず、「and here comes Kiwi out of the blue!」と叫ぶことしかできなかった。[4]
- 「Who would have thought? 」誰がキウイの優勝を予想しただろうか?[4]
- レース直後のインタビューで、馬主・調教師のEwen "Snow" Lupton ですら、「私はふだんからあんまり馬券を買わないけども、今日はキーウィに1ペニーも賭けていなかったよ」と認めた。[4]
- (たぶん2017年時点で)63歳の彼は、「私の人生でもっともスリリングなときだった」と述懐する。[4]
- キーウィの勝利は「ニュージーランド人の誇りの源泉」(source of great New Zealand pride)[4]
- 1983年後半(※10/19)、ハウェラ競馬場(Hawera)のエグモントC(Egmont Cup、2100m)に勝ち、調子があがっていた。[4]
- ウェリントンカップ(3200m)で勝ったあと、ラプトンは、もっと大きな野望を抱いた。[4]
- 同一年に、ウェリントンCかオークランドCと、メルボルンCの二冠を取った馬は史上初にして(現在)唯一で、「歴史を作った(history in the making)」(the first and only horse)[4] ※2017年現在
- キーウィは、ニュージーランドから、オーストラリアのレースに一度も出走しないまま、メルボルンカップに直行した。[4]
- そんなことは前代未聞で、オーストラリア最大の行事であるメルボルンカップに対す不敬(sacrilegious)だとまで言う者もいた。[4]
- メルボルンカップに出走する他馬は、ブリンカーを着用したり、シャドーロールを試したりして、本番に向けた様々なトレーニングを積んでいた。一方キウイはその間、メルボルンから南に1時間半のMornington Peninsula(モーニントン半島)の農場で、故郷にいつときと同じように、牛や羊にまじってリラックスしていた。そして牧草地で軽い運動をしたり、農場を何周かしたりしていた。[4]
- 1983年のメルボルンカップでのキウイの優勝は、テレビの生中継によって、NZでのメルボルンCの知名度を高めた。[6]
- ゴール寸前まで、実況者はキウイのことをほとんど喋らなかった。[6]
- ゴールが目前になったあたりで、実況者は「and here comes Kiwi out of the blue」(キーウイが突然やってきた)と叫んだ。これはメルボルンC史上、最高のゴールの一つ(one of the greatest-ever finishes in the history of the Cup)[6]
- 騎手はニュージーランド人のジム・キャシディ。[6]
- 調教はウェイバリーのSnowy Lupton。
- 1000ドルで同馬を買った時点では、まさかメルボルンCに出走することになるとは考えてもおらず、主に牧場で羊を集める(to round up sheep on the farm)のに使役されていた。[6]
- 論文
- [7]
- 「A Social and Cultural History of the New Zealand Horse」(ニュージーランドの馬事文化史)
- Carolyn Jean Mincham、2008
- NZアルバニーのマッセー大学の思想史教授(Doctor of Philosophy in History)
- ニュージーランド人とオーストラリア人は、サラブレッドの生産と競馬を通じて、繋がりがある。
- Snow Luptonは、1983年のメルボルンCの覇者キウイの馬主・調教師。
- ラプトン家は、古くからの馬産一家で、スノーもその伝統に影響されたと云われている。
- 競馬記者のPeter Hiltonによると、ラプトン家の競馬の伝統は、スノーの祖父、Isaac Luptonによって築かれた。この人物は、New Zealand War(en:New Zealand Wars、ニュージーランドの歴史#マオリ戦争参照、(1845-1872、マオリ族との戦争)世界大百科事典ではマオリ戦争)への貢献によって、Wanganuiに土地を得た。<出典はDianne Haworthの「Give a Man a Horse」2007、p17>
- オーストラリアの最良の馬たちあいてにキウイが勝ったのは、キウイのつつましいい出自により、とても劇的なものだった。
- ラプトンは相馬眼があり、キウイをたった1000ドルで買った。
- 自分の農場で、羊を集めるのに使いながら調教した。
- 描写されている。Max Lambert著の「November Gold:New Zealand's Quest for the Melbourne Cup」(1986)に。
- 同書で次のようにオーストラリアのコメンテーターの言葉が引用されている。
- For them it is all take and no give. Apparently devoid of shame or even British Empire loyalist sentiments, they come to our shores, but briefly, each year in springtime. They bring with them horses of uncommon plainness and curious breeding who tend to reside in their homeland upon dairy farms and kiwifruit plantation.
- 彼らは、奪うだけで何も与えなかった。 彼らには、大英帝国の信奉者らしい感情も恥の概念もなく、毎年春になると海岸にやってきた。彼らは、好奇心旺盛な珍しい品種の馬を連れてきて、酪農場やキウイフルーツのプランテーションをつくった。
- この記述は、農場で働くものは、とんでもなく高いお金を払ってオーストラレシア(オーストラリアではなく)馬を飼うことに、ニュージーランドの人々が夢中になった。
egalitarian quality 平等主義の資質
個人サイト
- [8]
- 1983最後方からの追い込み勝ち
- カップの前1ヶ月は出走しておらず、普通ではないトレーニングをしていた。そのため、ブックメーカーはこの馬の力が未知だった。
- 調教師は、馬の健康を維持するために、羊を集めることを中心とした調教メニューを組んでいた。これはまるで植民地時代のスピリットのようだ。
- 残り600で最後方
- 残り300まで先頭はChiamare (チアマーレ)
- Noble Comment(ノーブルコメント)とMr.Jazz(ミスタージャズ)が先頭にかわり、キウイはジグザグに走って、古典的なステイヤーらしく大きなストライドで、先頭に追いすがった。
- 残り150で、キウイは尻尾を振り、キャシディは馬群を縫うようにして進み、5完歩でノーブルコメントとミスタージャズをかわしさり、優勝。
- 観客は唖然として沈黙した。
- 現代のレースのなかでおそらく最も番狂わせの勝利のひとつ「probably one of the most amazing wins 」
1984/85(6歳時)
- 1984年のメルボルンCでは、キウイをめぐって不公正なことがあったとして物議を醸した。[4]
1985/86(7歳時)
- 1985年のメルボルンCでは、5着。[4]
1986/87(8歳時)
- 1986年のメルボルンCでは、決勝線手前で跛行した。[4]
- その一ヶ月後の(※注 これは間違いで、実際は1984年のJC)ジャパンカップで輝かしい5着になった(※注 これは間違いで、実際は6着)[4]
- 戦績は生涯13勝、獲得賞金はニュージーランドドルで50万ドル、うち31万ドルはメルボルンC優勝によるもの。[4]
引退後
- 引退後はラプトンの農場で余生を過ごした。[4]
- 1995年に死亡し、農場に埋葬された。[4]
- 墓碑にはただ「Kiwi, 1983 Melbourne Cup」(キーウィ、1983年メルボルンカップ)とのみ記されている。[4]
- ウェイバリー競馬場にも、記念のplaque(飾り額、記念盾)が掲示されている。[4]
- スノー・ラプトンは2001年12月に84歳で逝去、アンは2008年に75歳で逝去。[4]
評価
- 「Legendary galloper」[2]
文化
銅像の建立
- メルボルンC優勝のあと、国内外のマスコミが産地ウェイバリーに殺到した。そんなことはウェイバリー史上はじめてだった。[2]
- メルボルンC創設以来、ニュージーランド産馬の優勝は42回。過去50年では28回[2]
- 1983年メルボルンカップの劇的な優勝から33年後の2016年、キーウィの銅像が製作されることになった。[2]
- 「New Zealand is in a unique situation as a breeding ground for very good horses and it is important that people remember successes like Kiwi's,」ニュージーランドは、馬産地として特別な状況にあり、キーウィのような良質な馬を出す、ということを人々に思い起こさせることが重要だ[2]
- →単にキーウィの優勝を祝うだけでなく、ニュージーランドが馬産地として優れていることを示すもの[2]
- ハンソンによれば、ニュージーランドからは、メルボルンカップを12勝して「カップ・キング」と称されたバート・カミングス調教師をはじめ、ニュージーランドの気候や芝と土壌は、南半球におけるステイヤーの最良の産地だ。[2]
- 製作者は、ニュープリマスの彫刻家で、競馬好きでもあるフリチョフ・ハンソン(Fridtjof Hanson)である。[2]
- ハンソンは、もともとタラナキ島で外科医をしていた。[2]
- ハンソンは、キーウィの大ファン[2]
- ハンソンは、キーウィのメルボルンカップ制覇を、全ニュージーランド人が誇るべきものとして残すべきと考えた。[2]
- ハンソンは「Kiwi's cup win should be celebrated at every opportunity,」ありとあらゆる機会にキーウィのメルボルンカップ優勝を祝うべきだ[2]
- 重さ11kg[2]
- 台座は「タスマニアンブラックウッド」(Tasmanian Black Wood、)[2]
- 学名Acacia melanoxylon(en:Acacia melanoxylon)。アカシアのなかで「材面の最も美しいものの一つ」[9]
- まず、8番ワイヤー、粘土、金網で彫像をつくる。[2]
- 次にゴムラテックスの型枠をつくりワックスを充填する[2]
- 次にガスを逃がすための通気口をつくり、耐火材で型枠を覆う[2]
- 次に溶かしたブロンズを流し込む[2]
- これでワックスは焼き尽くされる[2]
- 次に耐火材を破壊し、ブロンズ像を取り出す[2]
脚注
注釈
出典
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 “Register of Throughbred Stallions of New Zealand Vol.Ⅸ”、pp.64-65、“BLARNEY Kiss*(12)”
- ↑ 2.00 2.01 2.02 2.03 2.04 2.05 2.06 2.07 2.08 2.09 2.10 2.11 2.12 2.13 2.14 2.15 2.16 2.17 2.18 2.19 2.20 2.21 2.22 2.23 2.24 2.25 2.26 2.27 2.28 2.29 2.30 2.31 2.32 2.33 2.34 2.35 2.36 Stuff Ltd、2016年10月29日付、Tony Bird、Why Kiwi Melbourne Cup winner has been immortalised in bronze(webアーカイブ版)。2023年8月14日閲覧。
- ↑ 3.0 3.1 3.2 Stuff Ltd、2012年9月5日付、Petrice Tarrant、Cup fever strikes(webアーカイブ版)。2023年8月14日閲覧。
- ↑ 4.00 4.01 4.02 4.03 4.04 4.05 4.06 4.07 4.08 4.09 4.10 4.11 4.12 4.13 4.14 4.15 4.16 4.17 4.18 4.19 4.20 4.21 4.22 4.23 4.24 4.25 4.26 4.27 4.28 4.29 4.30 4.31 4.32 4.33 4.34 4.35 4.36 4.37 4.38 4.39 4.40 Stuff Ltd、2017年11月11日付、Kelvin Teixeira、Flashback: Kiwi flies to legendary Melbourne Cup win in 1983(webアーカイブ版)。2023年8月14日閲覧。
- ↑ 5.0 5.1 LOVERACING.NZ、、Feature Race Results、Wellington Cup Winners。2023年8月14日閲覧。
- ↑ 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 ニュージーランド政府公式サイト、NEW ZEALAND HISTORY、Kiwi wins the 1983 Melbourne Cup。2023年8月14日閲覧。
- ↑ Carolyn Jean Mincham(マッセー大学Doctor of Philosophy論文)、{{PDFlink|A Social and Cultural History of the New Zealand Horse、p.275(PDF表示ソフト上は287ページ)
- ↑ [web.archive.org/web/20101101035949/http://grapevine.com.au/~paulandkaja/cups/greatrac.html The Melbourne Cup](webアーカイブ版)。2023年8月14日閲覧。。※信頼できる情報源でない個人サイトのようだ
- ↑ 中川木材産業、世界の有用木材950種、Tasmanian Black Wood。2023年8月14日閲覧。
<references>
で定義されている <ref>
タグ (name=".E7.A8.AE.E7.89.A1.E9.A6.AC.E9.8C.B211-58") は、先行するテキスト内で使用されていません。書誌情報
- New Zealand Blood-Horse Ltd./編、“Register of Throughbred Stallions of New Zealand Vol.Ⅸ”、The New Zealand Throughbred Breeder's Association Inc./刊、1976
- John M.Richardson/編、“Register of Throughbred Stallions of New Zealand Vol.Ⅺ”、The New Zealand Throughbred Breeder's Association Inc./刊、1980
関連図書
外部リンク
https://ahonoora.com/kiwi.html
関連項目
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