利用者・トーク:Julyfestival/下書き
「よりによってお前が言うな」的なことを書きます。私なりには、しばらく離れて眺めていることでなんとなく他人事のように客観的に見れているような気分になっており、以前とは少し違うことも言います。
BellcricketさんもHOPEさんも、どちらもウィキペディアにはとても必要な人です。そのあなた方が、方針文書の際どいところを巡ってつばぜり合いをするというのは、損です。私たちは「いい百科事典を作る」というのと同時に「共同作業をする」ということもやっています。どちらか一方だけをとることは絶対にできません。常に両方なのです。ほどほどに譲歩しあって、前に進んでほしいです。
基本的にルールというのは越えてはならない一線を引いたものであるでしょう。が、「だったら越えなければどんなにギリギリまで近づいてもいいよね」みたいな発想は共同作業向きじゃないです。「速度60km制限です」というルールが有るとき、「だったら59.9kmならどれだけ走ってもいいよね」じゃないです(あくまで私の考えですよ、そりゃまあ弁護士つけて裁判やれば59.9kmはセーフなんでしょうけども)。なぜ「速度60km制限」なのか、それは「事故を起こすなよ」ということなのです。59.9kmは100%安全で、60.0kmは100%事故るということではない。50kmだろうが、25kmだろうが、事故を起こせばダメなのです。逆に言えば、現実社会では60km制限のところを62kmで走ることは当たり前にあります。それは法令違反かもしれないが、それで現実に問題なくまわるのであれば許容されます。ほんの一瞬でも、0.0001kmでも、60kmを超えたありとあらゆるものを全部摘発しようとしたら、かえって社会に混乱をもたらすでしょう。(だから警察だってそんなことしない。)
で、私が言いたいのは、60km制限だよ、ってときに59.9kmか60.0kmかでモメるようなことにならないように、せいぜい50kmあたりで走ろうぜ、ってことなんです。今回は記述の除去をめぐって方針文書を挟んでトラブルになっていますけども、HOPEさんも、Bellcricketさんも、もうちょっと周りを見てほしい。どっちも「やりすぎ」「攻めすぎ」だと私は思います。60km制限なら、HOPEさんは念のため50kmぐらいで走ればいいし、Bellcricketさんは70km超えてる人に物申せばいい。私にはなんだか、「何が何でも全部残すぞ」というのと「何が何でも全部消すぞ」という両極端な発想で方針文書の言葉尻をとらえて争っているようにみえます。
- HOPEさんへ
「いい百科事典を作る」という観点からは、私はあなたを支持します。しかし同時に忘れてはならない「共同作業をする」という点では、HOPEさんにも非難を受けてしまうところがあることは否めません。
なんであれ、ルール違反の独自研究でさえも、自分が書いたものを消されるというのはネガティブな感情を引き起こします。それは結局、HOPEさんに何かの形で返ってきちゃいます。「避けられたはずの摩擦」はあったはずです。ワンステップかツーステップを省略せずに、あらかじめきちんと説明をするとか、除去だけでなく、コメントアウトや要出典、ノートへ移すとかの選択肢をいろいろ併用していけば、ずっと摩擦は減るはずです。
なんというかこう、悪い意味でなんですが、HOPEさんは天皇賞が秀逸な記事と認められたことによって、天皇賞でやったことを他の記事でも、自動的に適用していいというお墨付きを得た、みたいな感じにしていないでしょうか。正直私もそんなふうに考えていた時期もあったのかもしれないですが、やっぱりいちいち説明や議論を省いちゃいけない。天皇賞やPJでの議論のことなど知らない人、あとから来た人が、不満な感情をもってしまうからです。
天皇賞のときは、時間をかけて、議論をきちんとしてやっていきました。たしかに、出典のない記述を大量にバッサリやりました。あのときは、それが必要だねと事前に明言したうえでやりました。結果として秀逸な記事と認められて、それはHOPEさんの功績です。あの時も言ったかもしれないですが、私はガバっと削除するのが、なかなかビビってできない。しかしそれをやらなければ天皇賞は絶対に良質な記事にすらならず、今でも無出典のトリビアまみれのままだったでしょう。
しかし、他の記事でも同じようにやるならば、やっぱりいちいち事前に説明や議論を省いてはダメなんだと思います。天皇賞のときに、ほかの八大競走の記事でも似たような「バッサリ」をやりましたけど、そのときもちゃんと「どこそこでこういう議論をして、その結果に基づいて、削ります」とちゃんと示したうえでやりましたよね。それを毎回ちゃんとやるべきです。
今回も事前にノートにテンプレートを貼って2ヶ月待っても変化がなかったように、きっと多くの場合には無反応でしょう。ちょっとバカバカしい・しらじらしい感じもしますけど、「消すよ!消すからね!言ったよ!ちゃんと事前に言ったからね!」というのを誰もいない場所であちこちで叫んで回るようなことはやったほうがいいんです。現実ではそんなことしても誰の目にもとまらないですが、ウィキペディアではそういうのも全部記録が残っていつでも見れるので、1年後に誰かが偶然通りがかっても「この人はちゃんとやるべきことをやったんだな」とわかるのです。どうせ誰も何も言わないのにいちいちそれをやるのはいかにも面倒ですが、しかしやったほうがいいのです。そうしないと、今回のように、「この人は何でもかんでも機械的に除去している人だ」と見做す人が現れるかもしれない。それはHOPEさんの説明不足というところにも原因(責任とはいいません)の一端はあるはずです。こういうのをすっ飛ばしてしまうのは、それはそれでコミュニティ軽視、共同作業軽視と言いだす人が出るのもしかたがありません。
出典のない記述を消すときには、WP:BURDENにあるように、ひとまずいったんノートに移すという選択肢もありました(履歴の継承の点でちょっと面倒かもしれないけれど。)。Bellcricketさんのように「確かに出典がないが、べつに否定的な情報じゃない」と考える人もいるでしょう。「否定的かどうか」はそれこそ人の感性で変わるものでして、生年月日のようなものを単なる基礎情報と感じる人もいれば、それを書かれたからといって記事の主題の本質になんかちっとも影響しない・書かないで欲しいプライベート情報だと感じる人もいるでしょう。Triglavさんのように、「あらかじめ包括的な議論をPJなりでやっておけば(否定的な情報じゃないとしても、書くには及ばないというのもありだ)」という方もいます。私は天皇賞のことを知っているから、Triglavさんが求めるような「PJでの事前の合意」のようなものはあったっぽい?天皇賞で認められた手法を適用しているだけ、とは思いますけども、知らない人にとってはただ消しているだけとみるかもしれません。
どっちにしろノートで提案や説明、議論をすればいい。狡い考え方だけど、ノートを見れば、誰がこの情報を消すべきだと考えたか、誰が残すべきだと主張したか、証拠として残るわけです。訴えられたとしても、「俺は消そうとした」と主張できるでしょう。しかしそういう手順をすっ飛ばしてしまうと、今回のように消したというだけでクレームがつくわけです。それはひどく形式的で表面的な解釈としては、自分はちゃんと手を尽くしたよ、すっ飛ばしてないよ、というアリバイ作りの作業のようなものであるかもしれませんが、やっぱりやるべきなのです。
これは「いい百科事典を作る」ではなく、「共同作業のトラブル・摩擦を回避する」ことが目的化している考え方です。たとえばですよ、ある日一斉に100の記事で「これはおかしいと思うから消そうと思う」ってノートに書くと、それはそれでやっぱり摩擦の種になっちゃいます。1件1件は「いい百科事典を作る」に照らして妥当でも、常識で考えて、相手方も100の記事で対応できないですから。そこらへんはなんていうか、遠慮しながら、「いい百科事典を作る」と「共同作業=トラブル・摩擦を回避する」を両方気にしながらになっちゃいます。共同作業なので、それはしょうがないんじゃないかなー、というところです。ルールではダメじゃなくても。Bellcricketさんだって、HOPEさんが「手当たりしだいにいっぱい消しているっぽいぞ」と感じたから言いに来たのであって、ゆっくり手順を踏んで、周りに配慮を見せてやっていれば、「この人はちゃんとやる人だ」と思ったかもしれません。
Licsakさんがおっしゃった通り[1]、そういうのを「ちゃんとやる」のはしんどく、疲れます。自分で言うのも何だけど、私は疲れて、逃げ出してしまった。Licsakさんが指摘したように、「そういうのをちゃんとやる」のを回避し、あえてバンバン無慈悲な鉄槌を下すという、HOPEさんのやりかたも、「疲れない」という点ではなるほど合理的だし、現実として問題が尽きないことを考えると、こういうHOPEさんのやりかたもそれはそれでアリなのかもしれない。そうしないとすぐに酷いことになる。だから私はHOPEさんのやり方が完全に間違っているとまでも言えない。ほどほどに、という感じです。共同作業の場というのは、どんなに素晴らしいことを一人でやってみせても、ほかの多くの人に「あいついやだね」って言われると詰んじゃいます。うまいことやってください。
- Bellcricketさんへ
あなたは“ざっくり言えば「真偽の疑わしい情報は排除しよう」という意図によって生み出されたもの”と断定しています[2]。本当にそうですか?特筆性の議論でもあったように、「出典がある情報こそ書くべきものだ(「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」WP:V)」という考え方もあるんじゃないですか?だから、「私の家の前に電柱がある」ということは真偽で言えば真っぽくても、そのことに言及した出典がなければ書くに値しない、ということだったはずです。だから「出典の記載がないだけ」でも除去できちゃうのです。HOPEさんのやったことは、あなたが言うほど方針の精神とかけ離れたものではありません。(ただ、HOPEさん宛で書いたように、「共同作業の精神」からはちょっと乖離があったかもしれません。)
Bellcricketさん、あなたはまるで「自分は完全無欠の神のような存在」みたいに振舞っています。このコメント依頼での「HOPEさんにはそこをわかっていただきたい[3]」、という発言にそれが顕れています。自分は常に無謬で、方針文書を完璧に理解しており、他人はそれをわかっていない、という発想です。
「確約いただけますか[4]」という発言も同様です。HOPEさんは、あなたに何かを確約する必要などありません。あなたには誰かに何かを確約をさせる権利も資格も持っていません。「おねがい、こうしてほしい」どまりのはずです。あなたは無条件にコミュニティの全権を委ねられているわけではないのです。
Bellcricketさん、あなたもまた一利用者に過ぎないのです。方針文書を巡って解釈に幅が出たり、わかれたりしたとき、あなたにも間違いや修正すべき点はあるのです。そもそもウィキペディアは共同作業であり、利用者の多様性があることが絶対の前提です。同じ文章をみて解釈が異なる場合があるのは自明であり、「自分は常に正しい」という姿勢をとることは間違いのもとです。Bellcricketさんは「そういった考え方もあるのだな[5]」と認めるだけの度量と冷静さは持っておられます。意見が衝突する場合に、自分の言動も見なおしてみるというのは、共同作業では欠かせません。
私は、Bellcricketさんが優れた管理者であることは承知しています。とはいえ、管理者だからミスをしては絶対にダメということはないし、少なくともWP:SYSOPは管理者は高潔で人の手本にならなければならない、ということまで求めてはいません。我々利用者は、管理者さんを道徳的で高潔で理想的な人物でなければならないと思っちゃってる感じはままあるのですが、本来は「合意が形成されたらコミュニティの命でボタンを押す人」にすぎないのであり、ヘンな押し方をしない限り、完全無比な行状でなくたっていいのです。むしろ、共同作業をしていくうえで、トラブルを大きくせずに「それもそうだね」と対話を成功させ、ミスをして「ごめんごめん」と認める、そういうのが巧みで、自分自身も含めて修正を続けていくことができれば、それこそ手本になるでしょう。なんというか、文字で書かれた文書に固執するあまり利用者と対立を招くより、まあまあと言ってうまいこと取りなして歩くコミュニケイターであってほしいんですよね。(これなんかほんと、よりによっておまえが言うなですけどね!)
HOPEさんは、天皇賞を秀逸な記事にしています。Bellcricketさん、HOPEさんはそれだけ力量と実績がある執筆者なんですよ。なんでもかんでもひたすら機械的に消して回るだけの人とは違います。天皇賞では約17万バイトあった[6]出典のない記述を半分にまで削り、そこから再構築し、良質な記事を経て秀逸な記事にしました。事前の議論も含めると、とりかかりからひとまずの完成まで半年か1年かかっています。BellcricketさんはHOPEさんに「方針はその一部分だけ切り取って解釈するものではありません[7]」とおっしゃいましたが、HOPEさんの行動の一部を切り取って「無駄に消している[8]」とみなすのは、「一部分だけ切り取って解釈」しているのと一緒です。HOPEさんのアプローチは「秀逸」を生み出す長い道のりの第一歩であったりするのです。(ただし、HOPEさんの側では、そういう長いロードマップを示すとかで、スクラップだけではなくスクラップ&ビルドなんだよと示したり、ときには加筆して実証することも必要だったでしょう)
ひょっとすると、これは邪推になるかもしれませんが、もしかするとBellcricketさんが考える「秀逸」な記事にするためには、17万バイトあった出典のない記述を1バイトたりとも削らずに、全てに出典を探して付ける、それがBellcricketさんの求めるものなのかもしれません。しかし天皇賞ではそうせずに、バッサリやった上で、しっかりした出典を使って「いちから」書き直しました。私は何度かBellcricketさんと特筆性や出典の取り扱いを巡って見解がわかれています。私から見ると、Bellcricketさんは「記事を残す、情報を残す」ということについて極端な考え方をもっています。利用者には、「たとえ出典があっても、あまりにもアレなものは消したほうがいい」という考え方もあり、あなたはそういう利用者たちと対等な「一利用者」なのです。私からすると、Bellcricketさんの考えは「見つかる情報を全て集めたもの」が理想だし、私は「情報の山の中から厳選したもの」がウィキペディアが求めるものだろうと思っています/いました。どっちが妥当かはコミュニティが決めることだろうと思うし、その意味で私は自分の考えに100%の自信は持っていません。きっとどちらのアプローチからでも、「いい百科事典」にたどり着くことはできるでしょう。Bellcricketさんの考えにも、なるほどと思う面はあり、100%否定はしません。しかしまあそれはそれとして、現実に天皇賞は秀逸な記事だと認められました。HOPEさんのやり方でも、現実にコミュニテイに高く評価されるモノをもたらしている、ということも考えてみてください。
そして最後に一つ、ちょっとした言い回しというか、言葉尻なんですが、「だれでもできる」みたいな言い方はかんべんしてください。全ての執筆者に対して失礼です!それがどんなに大変で、そのために真面目な執筆者が日頃どんなに苦労をしていることか!もしかするとイージーな作業でも、量が多ければしんどいです。もちろんあなたにそんな意図がないことはわかりますけども、あなたの言葉遣いだと、多摩に暇人さんがやったことは検索エンジンに「池江泰寿」と入力して、上位に出てくるウェブサイトを少し読んだだけの容易な作業に過ぎないんだ、とバカにしているみたいに見えてしまいます!実際はそんなものではありません。それがどれだけしんどく、大変で、負担になっているか、だからこそ、どれだけ多くの「出典なし」記述がそのままになっているのか、そのことにも思いを巡らせてください。あなたはティルナノーグ (競走馬)の時に加筆してくださいました。HOPEさんに「誰でも出典つけられるのだから消すな」とクレーム言う暇があったら、それこそあなたが出典を加筆するべきです。いや、わかりますよ、あなたが言わんとしているのは「初版者・記述を行った人以外でも、出典をつけてもいいですよ」ということです。しかしそれを「だれでもできる」という言葉で言い表すと「簡単な事だ/なんでやらないの?/やらない奴は悪だ」みたいになっちゃいます。
- しまい
結局、私は「どっちもほどほどにね」と言うしかありません。今回は、HOPEさんもちょっと極端だし、Bellcricketさんもちょっと極端だ。もうちょっとこう、ほどほどのところで折り合えないもんですかねえ。優秀な執筆者と優秀な管理者が対峙して方針文書を突き詰めて議論するというのは、費やされる労力の割に得られるものが少なそうじゃないですか。
HOPEさんはもうちょっと、丁寧な説明、断り書きをする。Bellcricketさんは、記述を消すことが全て問題とは言わないで、記事の品質を上げるためには「記述を消す」ことも時には必要だと受け入れる。それでこの問題は解消できないでしょうかねえ。
ほんっと自分のことを棚に上げて偉そうに言う私も酷いんですが、私はBellcricketさんが本当に過剰に極端だ、とまでも思っていないんですよ。Bellcricketさんは、たぶん、常識とか良識がある。しかし、HOPEさんでもなく、Bellcricketさんでもない人で、なかにはですね、いちど「消してもいい」って言質を取ると、その言葉だけを錦の御旗みたいに掲げて機械的かつ大量に、なんでもかんでも消そうとする人もいるんです。そういう人に利用されるのはイヤです。が、今回のHOPEさんとBellcricketさんのことに関してだけ言えば、どちらもほどほどに加減しながらいい塩梅でうまいことできる方だと思うので、それで収まらないかね?と思います。