トーク:ポンテフラクト

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新石器時代

 2007年に、新石器時代の遺跡フェリーブリッジ環状列石Ferrybridge Hengeの調査があった。この遺跡はポンテフラクトの近くで住宅街の建築工事中に発見されたものである。調査後、建築工事が再開されている。

Roman

 「Roman Ridge」と呼ばれる古代ローマ時代の街道(現在はA639号線)沿いに集落がある。この街道は南のドンカスターへと続いている。ローマンリッジはエルミン街道の脇道で、カッスルフォード(Castleford)とタドカスター(Tadcaster)を経由しながらドンカスターとヨークをつないでいたとされる。この脇道を使うと、エルミン街道のノースフェリビー(North Ferriby)あたりでのハンバー河の渡しを避けることができ、荒天時に足止めをくう心配がなかった。

Anglo-Scandinavian history

 バイキングのエイリーク血斧王の時代が954年に終わり、1068年にノーマンの時代が始まる(w:ノルマン・コンクエスト)。この2つの年代の間をアングロ-スカンジナビアン期と呼ぶ。

 ポンテフラクトの町は、2つのアングロ-スカンジナビアの集落から構成された。それがタンシェルフ(Tanshelf)とカークビー(Kirkby)である。ヨーク州では、地名に「-by」というものが多い。これはデンマーク語に由来する。いまのポンテフラクトの主要道であるベイリーゲート(Bailygate)の「-gate」もデンマーク由来である。

Tanshelf and Kirkby

 アングロ-スカンジナビアン期の「タンシェルフ」は多様な綴りで記録されている。Tateshale, Tateshalla, Tateshalle , Tatessellaなどである。これらは1086年の検地帳ドゥームズデイブックに出てくる地名で、いまはポンテフラクトの町域に含まれている。

 アングロ-サクソンの歴史書でタンシェルフに関する記述が出てくる最古のものは947年のもので、イングランド王エドレッドがノーザンブリアを統べる議会に謁見し、その提案を受け入れた時のものである。Eadred王は程なくしてノーサンブリアの支持を失い、1年後に、王国はヨークの王、血斧王エーリックを王にすることを決めた。

 検地帳ドゥームズデイブックが1086年に征服王ウィリアムによって編纂された頃、タンシェルフは既にかなり大きな町になっていたらしい。町には僧侶1人、60人のpetty burgesses二級市民(petit bourgeoisだと「プチブルジョア階級」)、16人のcottagers農業労働者、16人のvillagers村人、8人のsmallholders小自作農など、人口101人と記録されている。

 しかし、実際の人口は、これより4倍か5倍の規模あった模様だ。土地所有者としてリストされている人の数は。検地帳はそれらの家族を数に入れていなかったので。タンシェルフには教会1、漁港1、水車3があった。考古学者の発見によって、昔のポンテフラクトの教会があった場所は、城の下の、ノースベイリーゲートのはずれの、the Boothsブースだったことがわかっている。

 墓碑の年代で最古のものは690年頃のものである。教会はおそらくタンシェルフに属していた。いまの市場があるあたりに、かつてのOsgoldcross郡(Osgoldcross Wapentake)の公会堂があった。

 アングロサクソン時代になると、いまのポンテフラクトの町はアングロ-スカンジナビアンの呼び名でカークビー(Kirkby)と呼ぶようになった。

中世

The Norman Conquest

Main articles: de Lacy and Pontefract de Lacys' family tree

1066年のノルマン・コンクエストのあと、ヨーク州の大半はウィリアム征服王の家臣の領地になった。その中の一人、Ilbert de Lacyがタンシェルフ(Tateshale (Tanshelf))の領主になり、城を建てた。

ポンテフラクト城は1086年以前の初期には木造だったが、のちに石造りで改築された。

de Lacy家は城に2世紀以上住んだ。1067年から城とポンテフラクトを支配し、1348年にAlice de Lacyが死ぬまで。

リチャード2世王は、1400年にポンテフラクト城で暗殺されたが、その詳しい事情は判っていない。一般には、シェイクスピアの史劇によって伝えられているのだが、おそらく真相はシェイクスピアによって脚色されていると考えられている。リチャード2世の最期には、少なくとも3種類の説がある。幽閉されて餓死させられたという説、自害したという説、1399年か1400年の2月14日にSir Piers (Peter) Extonに殺されたとする説である。

Robin Hood

 15世紀のロビン・フッドに関する俗謡には、ロビン・フッド一味が活躍するバーンズデイル(e:Barnsdale)の森が出てくる。この森はポンテフラクトの南にある。特に、中世の俗謡(ballads)には頻繁にウェントブリッジ(e:Wentbridge)の村が出てくる。この村はポンテフラクトのはずれにあった。

 さらに、Michael Draytonが1622年に編んだe:Poly-Olbion(イングランド独特の詩、e:Topographical poetryのひとつ)の詩歌28番(67-70)は、ロビンフッドの死に言及している。その終焉の地は、かつてのポンテクラフトに当たるカークビー(Kirkby)である。

 歴史家の S. A. La' Chanceは、ロビンフッドはカークビーの聖ニコラス医院で死んだと推測している。これはオールセインツ教会の付属医院だった。ウェイクフィールドのウェント川に架かる橋にある遺跡の案内銘板(w:ブルー・プラーク)にはロビンフッドに関連する言及がある。

Early Modern history

Tudor

 エリザベス朝時代、ポンテフラクト城では、自分たちのことを「ポンフレット(Pomfret)」と読んだ。シェイクスピアの「リチャード3世」や「リチャード2世」にはこの城のことが出てくる。

Civil War

 ポンテフラクトは清教徒革命で戦禍を被った。1648年から1649年にかけて、ポンテフラクト城はオリバー・クロムウェル率いる軍勢に包囲された。クロムウェルは城を“イングランド有数の難城”と評した。この議会派勢力による包囲戦の結果、町は貧困と過疎になった。1649年3月、3度めの攻城戦のあと、ポンテフラクト住民は4度目の合戦を恐れ、城の明け渡しを申し出た。住民にとっては、城は災いを惹きつける磁石のようなものだった。1649年4月から城の破却がはじまった。2014年の時点では、城址が残っていて、公開されている。

Pontefract Priory history

 ポンテフラクトでは、w:クリュニー会の修道院、ポンテフラクト修道院が1090年に設立された。設立したのは Robert de Lacy、彼は特に福音記者ヨハネ(e:John the Evangelist)の門徒である。

 修道院は1539年に国教会によって解散させられた。修道院の記録文書は寺院が保管し、その歴史的文書のコレクションはのちにe:Thomas Levettが再発見した。レヴィットというのは、ラトランド州長官(e:High sheriff of e:Rutland)で、ヨーク州出身者である。彼はのちにこれらを古物蒐集家のe:Roger Dodsworthに渡した。これらは後世にヨーク州考古学会が刊行した。

today

 近接するフェリーブリッジ(Ferrybridge)には石炭の火力発電所がある。しかしこの地方の炭鉱は1990年代に軒並み閉山になり、多くの失業者が出た。

 ポンテフラクトの、深く、砂っぽい土壌は、甘草の生産に適していて、ポンテフラクトはイギリスで数少ない甘草の産地となった。町には甘草から甘味料を製造する工場があり、HARIBO(テディベアのカタチのグミのあれ)などの製菓会社の工場がある。毎年「甘草祭(Liquorice Festival)」がある。詩人e:John Betjemanの詩の中に、「ポンテフラクトの甘草畑」というものがある。

 ポンテフラクトは中世から続く市場町で、いまでも毎日、水曜日と土曜日に市が開かれる。金曜日にも小さな市が開き、テント市は木曜の午後と日曜以外は毎日やっている。木曜日の午後は町は休みになる。

 市民はポンテフラクトのことを「ポンテ」とか「ポンティ」と呼ぶ。モンテカルロっぽく「ポンテカルロ」と言ったりもする。

 ポンテフラクトはパブが多く、単位面積あたりの店の数が全英一だと言われたこともある。(誰によって?)

 町には鉄道駅が3つある。ヨークとシェフィールドを結ぶ路線(Dearne Valley Line)のバグヒル駅(Pontefract Baghill railway station)、リーズとウェイクフィールドを結ぶ路線のモンクヒル駅(Pontefract Monkhill railway station)とタンシェルフ駅(Pontefract Tanshelf railway station)である。ブラドフォード(Bradford)とロンドンを結ぶ列車もモンクヒル駅に停まる。

Governance

 地方自治に関してはウェイクフィールド市の管轄である。選挙区は南北2つに分かれている。南の選挙区には、ダリントン地区(Darrington)などの郊外に住む裕福な層と、シェカーフィールド(Chequerfield)のような貧困層が混在している。北の選挙区には、モンクヒル(Monkhill)、レイディバルク(Ladybalk)、マイソン・チェアー(Myson Chair)。かつて炭鉱があったことから、労働党の影響が強いとされている。

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