レディ・ジーア・ワーナー

提供: Test Wiki
2016年3月1日 (火) 19:02時点におけるJulyfestival (トーク | 投稿記録)による版 (ページの作成:「レディ・ジーアはロシア系で、かつてのロシア皇帝アレクサンドル3世の血縁に遡る女性である。  20世紀初頭のw:ミハイ...」)

(差分) ←前の版 | 最新版 (差分) | 次の版→ (差分)
移動: 案内検索

レディ・ジーアはロシア系で、かつてのロシア皇帝アレクサンドル3世の血縁に遡る女性である。

 20世紀初頭のミハイル・ミハイロヴィチ(1861-1929)はニコライ1世の孫にあたり、ロシア皇帝アレクサンドル3世(在位1881-1894)とは従兄弟の関係である。

 ミハイロヴィッチ大公はあるとき南フランスのw:ニースで暴れ馬からゾフィーという娘を救い、二人は恋に落ちた。ロシアの法律では貴族王族は庶民 ― 庶民と言っても、ゾフィーはルクセンブルク大公の私生児なので、貴族の血を引き、メーレンベルク伯爵家の令嬢だったのだが ― と結婚することができなかったので、大公は身分より恋を選び、ゾフィーとフランスで結婚した。その知らせを伝え聞いた母親は心臓発作で死んだ。

 ロシアを追放されたミハイロヴィッチ(もはや大公ではない)はフランスやイギリスを転々として貧しい生活を送った。遠縁にあたるイギリス王室はミハイロヴィッチの友人となり、エドワード7世、ジョージ5世らと交流を持ったが、ロシア王家の手前、表立って援助することもできなかった。

 ディケンズの馬主であるレディ・ジーアはこのミハイロヴィッチとゾフィーの長女である。ドイツで生まれ、アナスタシア・ミハイロヴナ・デ・トルビ(Анастасия Михайловна де Торби)と名が与えられた。「トルビ(トービー)」というのは、母ゾフィーが結婚に際してルクセンブルク大公(ゾフィーの父)から授けられた新しい爵位(伯爵)である。

 アナスタシアは愛称を「ジーア」と言った。ジーアは成長すると、1917年にダイヤモンド王ジュリアス・ワーナー准男爵の子息、ハロルド・ワーナーと結婚した。これにより、ミハイロヴィッチの家は経済的に救われると同時に、イギリスで正規の貴族と同格に扱われることができるようになった。まもなくロシア革命がおこった。ロシアにいたミハイロヴィッチの親戚(ロシア王家の血をひく人々)はみな赤軍によって惨殺され、結果的にはミハイロヴィッチの家系がロシア王家の血を伝える数少ないファミリーとなったのである。イギリス王室ももはやロシア王家(存在しなくなった)を憚る必要がなくなり、ジョージ5世はレディ・ジーア(トビー伯爵夫人)を伯爵令嬢として正式に扱うように勅許を出したのである。

 ハロルド・ワーナー准男爵とレディ・ジーアは馬主としても数々の名馬を所有した。なかでも飛び抜けた名馬があのブラウンジャックである。ブラウンジャックはクイーンアレクサンドラS6連覇などイギリス競馬史に残る最強馬の1頭となり、アスコット競馬場にはブラウンジャックの銅像が建てられた。夫妻はほかにも、シャーロットタウン(Charlottown)で1966年のダービーを制している。