リスター家
リンカン州の Burwell Park(Louth近郊)
代表馬
Mattew Lister ,Esq.
- Lister Turk
- Snake
- Fox Cub also called Squirrel 1714(Squirrel とは別の馬)
- Dunkirk
Mr Lister
家柄
リスター家の系譜を遡ると、13世紀中葉のダービー州の小領主サー・トマス・リスターにたどり着く。当時の家名は「Lassetter」(ラセター)とか、「Lyster」などと綴ったらしい。
その子孫は、ヨーク州ミッドホープ(Midhope、シェフィールドの北西)、ギスバーン(Gisburn、シェフィールド近郊)、ソーントン(Thornton、キースリーの西[1])など、ヨーク州の各所に小領地を獲得していった。それらは、息子たちへ分割したり、娘の嫁ぎ先へくれてやったりして、代を経ていくうちに散逸していった。
しかし16世紀のウィリアム・リスターの時代に、それらの旧領が再び集まった。親類のミッドホープ家では、嫡流の男子が断絶しかかっていてアンという娘だけが残っていた。ウィリアム・リスターはアン・ミッドホープを嫁にした。やがてミッドホープ家の当主が没すると、ミッドホープ家の財産はリスター家のものになった。アンは男子4人、女子2人を産み、31歳で亡くなった。そのあと、ウィリアム・リスターはピゴット家の未亡人、ブリジット・ピゴットを後添えとして迎えた。ブリジットは75歳まで生き、14人の子を産んだ(といっても、生まれたその日に死んでしまった子や、1歳になる前に死んだ子もいる。)。
ウィリアム・リスターは、当時としては長命で、58歳まで生きた。ウィリアムが没したとき、まだ生きていた息子のうち、年長だったのがローレンス・リスターだ。だがローレンスが没したときには、唯一の男子は幼少だったため、リスター家の惣領の地位は別の兄弟に移ったようだ。このときにリスター家の所領の一部を手放しており、その一部はやがてダーシー家やマーマデューク家の手に渡った。
ローレンスの弟、マーティン・リスターはちゃんとした大学には入れず、軍人になった。やがて騎兵部隊の指揮官を任されるまでになった。16世紀の終わり頃、イギリスではテューダー朝最後の王、女王エリザベス1世が君臨していた。その頃フランスでは、カトリックとプロテスタントに分かれて内戦(ユグノー戦争)に陥っていて、エリザベス1世はプロテスタントのアンリ4世を支援するため、フランスへ軍隊を派遣した。マーティン・リスターはその部隊で騎兵隊の一部隊を率いていた。だがこ派兵は行きあたりばったりで適切な支援を欠き、大失敗に終わった。部隊には本国からまともな補給も送られず、北フランスのノルマンディー地方やブルターニュ地方を彷徨っているうちに、フランスとスペインのカトリック連合軍に打ちのめされ、ほとんど全滅した。マーティン・リスターは捕虜になって生き延びた。自分の身代金を払ってくれと頼む書状が残されている。
なんとか帰国を果たしたマーティンはヨーク州選出の議員になり、ローレンるの死後はリスター家の当主になった。母ブリジットの実家であるピゴット家(Piggot)から嫁を迎えた。1603年エリザベス1世が崩御しする。女王は宗教問題については現実主義者で、混乱を避けるためにプロテスタントにもカトリックにも配慮し、極端を避けた。この政策を継続するため、重臣たちはスコットランドからジェームズ1世を新たな王に迎えた。国内のプロテスタント過激派はそれが気に食わず、ジェームズ1世に対する反乱を起こした。ピゴット家はこれに加担し、当主が捕縛されてロンドン塔に幽閉された。この結果、ピゴット家の資産がマーティン・リスターのもとへ転がり込んだ。
マーティンは、あちこちのリスター家の領地をときどき切り売りして、楽な暮らしをしたという。
マーティンの弟に、医師になったマシューがいる(本項の馬主・生産者であるマシュー・リスターとは同姓同名の別人)。マシューは、1603年に新英国王となったジェームズ1世の王妃、アン・オブ・デンマークのお抱え医師になった。さらに、国王夫妻の息子であるチャールズ1世も診た。チャールズ1世は1625年に王位を継ぎ、マシューは王室御典医に出世した。そして1636年にナイト爵に叙勲された。
だがまもなく、狂信的なプロテスタント過激派がチャールズ1世に対して反乱を起こす。この合戦のさなか、チャールズ1世は囚えられて処刑されてしまった。清教徒革命である。リスター家が清教徒革命にどう関わったかはよくわからない。が、マーティンやマシューの来歴を考えれば、きっとリスター家は王党派だっただろう。そして、クロムウェルによって一時的に国が乗っ取られた1640年代から1660年代には、不遇の時代を過ごしたに違いない。もしかすると各地の領地を失っただろう。
この間、マーティンは男子を残さず死んでしまう。リスター家の家督は、マーティンの実兄マイケルの子、マーティン・リスターに受け継がれた。1660年に王政復古が実現した頃には、その経緯はよくわからないが、リスター家の本拠地はヨーク州ミッドホープからリンカン州バーウェルに移っていた。そしてマーティンの孫にマシュー・リスターが登場する。
- 家系概略
- |ウィリアム・リスター(15?? ~ 1582)ソーントン卿
- ||ローレンス・リスター(1550 ~ 1609)
- ||マイケル・リスター(1564 ~ 1618)
- |||マーティン・リスター(1603 ~ 1670)
- ||||マイケル・リスター(1638 ~ 1678)
- |||||マシュー・リスター(1666 ~ 1700)Lister Turkなどの馬主・生産者
- ||マーティン・リスター(1569 ~ 1649)議員
- ||サー・マシュー・リスター(1550 ~ 1609)チャールズ1世の御典医
系譜
- |Unk Unk Lassetter[2] 1235 - ?
- ||Thomas Lassetter, (DL=>16th-ggf_mat.)[3] 1260 - ?
- |||John Lister, DL=>15th ggf-Mat.)[4] 1290 - 1360 Darby, Darbyshire
- ||||Sir Richard Lister[5] 1345-1403
- |||||Lord John Richard? Lister (Lyster)[6] 1370 - 1434
- ||||||Lawrence Lister (Lassetter)[7] 1406-1434
- |||||||Christopher Lister[8] c.1434 - 1509
- ||||||||William Lister, Esq.[9] c.14+6 - 1537 Probably Medhope, Yorkshire
- |||||||||Sir Christopher Lister[10] c.1496 - 1548.09 Gisburne, Yorkshire
- ||||||||||Lord of Thornton William George Lister, Esq.◆[11] 1524 - 1582.10.04 Thornton-in-Craven, North Yorkshire
別説
- ||Sir Thomas Lister[12] 1260 - 1??? Derbyshire
- |||Sir John Lister[13] 1290 - 1???
- ||||Sir Richard Lister[14] 1345 - 1403
- |||||Sir John Lister[15] 1380 - 1434
- ||||||Sir Laurence Lister[16] 1412 - 1???
- |||||||Sir Christopher Lister[17] 1434 - 1509
- ||||||||Sir William Lister[18] 1472 - 1538
- |||||||||Lawrence Christopher Lister[19] 1496 - 1551
- ||||||||||Sir William Lister◆[20] 1512 - 1582.10.04
- ||||||||||Lord of Thornton William George Lister, Esq.◆[21] 1524 - 1582.10.04 Thornton-in-Craven, North Yorkshire
- |||||||||||William Lassetter[22] 1537 - ???? 母Mary
- |||||||||||John Lister[23] 1548 - ???? 母Ann
- |||||||||||William Lister[24] 1545 - ???? 母Ann
- |||||||||||Christopher Lister[25] 1546 - ???? 母Ann
- |||||||||||Laurence Lister[26] 1550 - 1609 母Ann
- |||||||||||Elizabeth Lister[27] 1551 - ???? 母Ann
- |||||||||||Mathew Lister[28] 1550 - 1555 母Bridget
- |||||||||||Margrette[29] 1551 - 1591 母Bridget
- |||||||||||Isabel Lister[30] 1552 - ???? 母Ann
- |||||||||||Bartholomew Lister[31] 1556 - 1583 母Bridget
- |||||||||||Frances Lister[32] 1558 - 1559 母Bridget
- |||||||||||Frances Lister[33] 1560 - 1560 母Bridget
- |||||||||||Mary[34] 1561 - ???? 母Bridget
- |||||||||||Jenet Lister[35] 1561 - 1566 母Bridget
- |||||||||||Michael Lister[36] 1564 - 1618 母Bridget
- ||||||||||||Martin Lister, MP[37] 1603 - 1670 Midhope, Yorkshire → Burwell, Lincolnshire
- |||||||||||||Michael Lister[38] c.1638 - 1678 Burwell, Lincolnshire
- ||||||||||||||Mathew Lister[39] 1666 - 1700 Burwell, Lincolnshire
- |||||||||||Rosamond[40] 1565 - 1604 母Bridget
- |||||||||||Ellen[41] 1566 - 1566 母Bridget
- |||||||||||Martin Lister, MP[42] 1569 - 1649 母Bridget
- |||||||||||Sir Matthew Lister[43] 1571 - 1656 母Bridget
- |||||||||||Capt. Edmund Lister[44] 1572 - 1600 母Bridget
- |||||||||||Frances Lyster[45] 1578 - ???? 母Bridget