![]() 忍路(おしょろ)というのは、北海道でも古くからヒトのいた地域である。この一帯には、縄文時代後期(3500年前ごろ)の100前後のストーンサークルがあるが、なかでも忍路にある忍路環状列石はその代表格で、日本考古学史上、学会に報告された第1号のストーンサークルである。 忍路はその地形から港に最適で、日本海側の海路の要衝として古くからひらけた。北海道の日本海側は断崖絶壁に阻まれて近づくことは容易ではないし、広く開けた砂浜は強風に流されるため船の停泊には適さない。忍路湾は、風が吹いても、周りを囲む岩崖が風を防いでくれるため、天然の良港だった。 ![]() 江戸時代に成立したという民謡『江差追分』にも“忍路や高島までは行けなくとも、せめて歌棄や磯谷まで行きたい”というフレーズがある。 戦国時代のはじめ頃までは、和人は松前や江差などに拠点を置く程度だったが、織豊政権が確立して戦国大名の序列が安定してくると、松前の和人は武力によるアイヌ支配を試みた。その結果、1669年にシャクシャインによる武装蜂起を招いた。白老や染退(しぶちゃり/現在の静内町)など広範囲から集まったアイヌ軍と和人軍は箱館の北方で激戦となった。 ![]() これ以来、北海道の交易拠点は和人が支配するようになったが、実際にこれを担ったのは全国の商人、とりわけ打算的で欲深いことで知られる近江商人である。 各交易拠点は「場所」と呼ばれ、1つの「場所」は1人の商人が独占できる「場所請制」が全道に敷かれた。忍路や高島(現在の小樽北部)の場所請権を獲得したのが近江商人の西川伝右衛門である。 西川家は近江の六角氏の家臣の家柄で、戦国期に織田信長に押されて主家が衰えると野に下った。伝右衛門はその何代目かにあたり、北前船を仕立てて北海道と大阪を行き来して一代で財を成し、松前城下に名だたる豪商へ成長した。伝右衛門は自ら忍路や高島へ赴き、アイヌの言葉を学んだという。 伝右衛門は、延宝2年(1674年)に大国主神を勧請してこの神社を創建した。シャクシャインの乱の5年後である。北海道では、大国主大神を祀る神社としては最古のものとされている。 この神社は「蝦夷大国主神社」と呼ばれており、「蝦夷大国主一宮」を称することもある。明治に入って全国の神社の体系化・格付けが始まって早々、明治8年(1875年)には郷社となった。明治17年(1884年)に、市杵島姫神を合祀して忍路神社と改称した。 大正1年(1912年)には忍路稲荷神社を合祀し、大正9年(1920年)に現在の場所へ遷され、本殿・拝殿の整備が行われると、翌年2月から神饌幣帛料供進神社と認められて祭礼に公費が支出されるようになった。 ![]() 蘭島神社で既に聞かされていたが、 忍路神社では冬季には神事がないから除雪してないよ、とのことで、ここからは雪こぎになる。 ![]() この拝殿は、何度かの焼失を経て再建されたもの。 ![]() 最初の社殿は元禄2年(1689年)まで遡るが、これは明治の中頃(明治23年・1890年)に焼失し、明治29年(1896年)に再建された。これがさらに現在地へ移転したものである。 ![]() ![]() 北海道の神社としては、こうした彫刻があることは珍しい。 しかし明治中頃のものだという目で見ると、龍の表現がものすごく細かくはない、というあたりに、「明治」という雰囲気が顕れている。もっと古い時代であれば、もっと手間ひまかけて丹念に入念に微細に彫刻され、もっと丸っこいはずなのだ。 ![]() ![]() この社殿の脇に、もうひとつの社殿がある。 ![]() ![]() ![]() この壮麗な社殿は、もとは津古丹稲荷神社と言い、別の場所(津古丹)にあったそうだ。津古丹というのは、忍路の東隣りにあった地名で、塩谷に向かう途中の海岸のことらしいが、今はもう集落もなにもない。 「津」は日本語で港のことだし、「古丹(コタン)」はアイヌ語で「村」のことなので、そのまんまの地名という感じだが、かつてはそこに西川伝右衛門が居を構えていたそうだ。この社殿はその敷地内にあった祠だそうで、嘉永2年(1849年)に建てられたものだという。小樽市内では最古の神社建築とされている。 ![]() この津古丹稲荷神社は、国道5号線の整備の時に解体されてここに移築されたそうだ。どんな塗装しているのかは不明だが(北海道のことなので、ひょっとするとペンキかもしれないが)、レアモノであることは間違いない。 【北海道神社庁誌データ】
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追加日:2015年2月16日 |