名和長年は地元の名和でほそぼそと崇敬されていたのだが、国費で立派な神社が作られることになった。それで生まれたのが名和神社であり、この氏殿神社は名和神社が出来る前まで「ほそぼそと祀られていた」頃の社である。
「日吉坂」にあったという名和神社の前身、県社氏殿神社を訪ねた。 こんな感じで、うっかりすると見逃しそうなところに入口がある。
![]() 通路が折れ曲がったところにこの鳥居が現れる。 表の車道からは見えないところにあるので、なかなか気がつかない。 あと、たぶん土に埋もれているんだろうけど、低い。 身を屈めてくぐる必要がある。 ![]() 石鳥居には「嘉永七年 甲寅三月」とある。 たしかに嘉永7年(1854年)は甲寅の年であり、当時の「三月」は今の暦では3月末から4月の末までにあたり、ほぼほぼ「4月」だ。 1854年といえばいわゆる幕末にあたる。当時の鳥取藩・池田家の藩主は池田慶徳という。ほとんど知名度はないと思うが、池田慶徳は、最後の徳川将軍・徳川慶喜の実兄である。当時、池田家でも後継ぎがなかったので、水戸藩の徳川斉昭の子を養子として迎えたのである。 ![]() 石段を登る。 昔はこのあたりを「日吉坂」と言ったそうだが、ここは大山に発する名和川のほとりから、段丘上に登っていく坂道にあたる。坂の下には坪田という地区で、そこに名和川と東谷川の合流地点があって、昔は渡し場だったらしい。 ![]() これが社殿。 かつてはここへ歴代の鳥取藩主や西園寺公望も兵を引き連れて参詣し、 明治7年からいちおうこれでも「県社」(明治7年-11年)、「別格官幣社」(明治11年-16年)だった時期があるわけで、いまの名和神社に比べると、たしかに簡素にすぎる。 「県社」なんて嘘じゃないの?と思うレベルだ。 ![]() しかし、境内にある石碑が、ちゃんと権威があったことを物語っている。 これこそ大山町の指定文化財、「故伯耆守名和君碑」である。
境内の中ではないが、その裏手あたりには「的石」がある。
名和長年は、流れ着いた後醍醐天皇を助けることにしたわけだが、後醍醐天皇は鎌倉幕府のお尋ね者であって、隠岐守の佐々木氏や、倉吉の小鴨氏ら幕府方の勢力が名和に押し寄せた。長年の兵力は一族郎党かき集めて150名。それに対して隠岐守佐々木氏は3000の兵力でやってきた。 まともに当たっては勝ち目がないので、長年は後醍醐天皇をつれて船上山の山頂に立て籠もった。船上山は山頂の三方が数百メートルの崖になっており、20倍の兵力差があっても、上から弓で射掛けることで劣勢を補えたのである。ほかにも長年は、無数ののぼり旗をたてて兵力を何倍も多くみせかけたという。 そうやって幕府軍を食い止めている間に、京都では足利尊氏が六波羅探題を攻め落とし、鎌倉では新田義貞が幕府を攻め落とし、鎌倉幕府は滅んだのである。 もし名和一族がこの石で弓の練習をしていなかったら、室町幕府は誕生していなかったかもしれない、というわけである。 【鳥取県神社庁誌データ】
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
参拝日:2008年08月20日 |