イギリス競馬の歴史

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「競馬」の歴史の黎明期

いわゆる「競馬」の歴史を書こうとすると、どうしたってウマの家畜化の歴史からはじめることになる。アッシリアがどうしたとか、クビキがどうだとか、車軸がどうのとかを述べたあと、ローマの戦車競技を解説することになる。

だがしかし、このサイトではそれはスポイルする。面倒くさいからだ。それに、たしかにそれらは現代の競馬のルーツではあるだろうけど、サラブレッドの個体認識の制度が確立するよりも前の時代のことをいくら書いても、直接的に今のサラブレッドと結びつかないので、つまんないのだ。だからスポイルする。

というわけで、本サイトでは1600年から話をはじめることにする。

「競馬の中心地」の黎明期

ニューマーケットは「世界の競馬の中心地」(capital of horse racing)と呼ばれている。それは単にニューマーケットで大レースがあるとか、競馬が盛んであるとか、有力な調教師が集まっているとかの理由ではない。ニューマーケットの地で競馬についての重要な取り決めが行われてきて、世界中の競馬人がその取り決め「ニューマーケット規則ルール」に従っているからだ。だからまずは、ニューマーケットの歴史を眺めることで、「どうして世界の人々はニューマーケットで決まったルールに従ったのか」をみていくことにしよう。それが「競馬の歴史」に直結することになる。

1603年、スチュワート朝の誕生と競馬規則の発祥

然だが、1603年というのは日本人と英国人にとってはキリのいい年である。言うまでもなく、日本では1600年の関ヶ原の戦いのあと、1603年に江戸幕府が成立し、260余年にわたる江戸時代=近世が開闢する。小学生でも知っていることだ。同じようにイギリスでは、1603年に新しい王朝が誕生している。それがスチュワート朝である。スチュワート朝はそこから約110年、1714年まで続く。そのあいだには色々と世界史レベルの大きな出来事があったのだが、スチュワート朝の時代に「グレートブリテン王国」が成立しており、今の「イギリス」の直接の原型が生まれている。そしてスチュワート朝時代に競馬も目覚ましい発展を遂げた。

イングランドとスコットランド、ウェールズ、アイルランド

いまの「イギリス」は、理論上は1つの国ではない。イングランド、スコットランド、ウェールズという3つの国と、北アイルランドという地域の連合である。たまたまイングランド、スコットランド、ウェールズの王国の王が同一人物であるために、同君連合として連合王国を形成しているだけだ。

イギリスの歴史では、そういうことはちょくちょくあった。たとえば今のフランスの西海岸にノルマンディー地方というのがあるが、ここはイングランドの王の領地だったことがある。ドイツのハノーファー地方がハノーファー国だった頃には、そこの国王とイングランドの国王が同一人物だったので、イングランドとハノーファーは同君連合になっていた。

かつてはイングランドとウェールズ、スコットランド、アイルランドには別々の王がいて、お互いに争い、ときには実際に戦闘が行われていた。スコットランドの王は、武力でイングランドの王を倒してイングランドを征服してやろうとしていた。それが(一応)おさまったのが1603年のスチュワート朝の誕生ということになる。

スチュワート朝が誕生するまで

チュワート朝というのは、要するにスチュワート家がイングランドの王であった時代のことをさす。それよりも前のチューダー朝や後のハノーヴァー王朝とは一応の血縁関係があり、まったくの断絶があるわけではないが、時代区分としては大きな違いがある。スチュワート朝の前、チューダー朝(テューダー朝)は、1455年から1485年の薔薇戦争によって誕生した王家である。12世紀半ばから14世紀末まで続いたプランタジネット家(プランタジネット朝)の分家がランカスター家とヨーク家に分裂して薔薇戦争を戦い、最後にランカスター家の王子とヨーク家の姫の結婚によって戦争が終わり、チューダー朝が始まった。

チューダー家の時代には、イギリスの歴史で最高ランクに有名な王が何人かいる。1509年から1547年に王位にあったヘンリー8世がその一人で、次々と離婚と結婚を繰り返したことで知られている。それはキリスト教の教義に反することであり、ヘンリー8世はローマ法皇と喧嘩別れしてイングランド国教会を作り出したことになっている。歴史学者は、そんな単純な話ではなくもっと複雑な背景を語るだろうけども。

ヘンリー8世の娘、女王メアリー1世はカトリックの信奉者で、父が作り出したイングランド国教とプロテスタントを迫害した。だから「血まみれブラッディメアリー」と呼ばれた。その妹、「処女王」エリザベス1世の時代には、スペインの「無敵艦隊」を破ってイングランドと絶対王政の絶頂期を迎える。

そのエリザベス1世が1603年春に崩御し、チューダー朝は幕を閉じた。問題は後継者争いとなった。そもそもヘンリー8世が次々と離婚と結婚を繰り返したのは、(彼が好色な人物だったからだという説明もあるけども、)跡継ぎとなる男子が必要だったからだという。しかし結局それがうまくいかなかったから次々と女王が誕生したわけだ。エリザベス1世が「処女王」として未婚を貫いたのは、ヘタに結婚すると王位継承問題が厄介なことになるから慎重を期していたわけだが、最終的に後継者を指名せず死んでしまったのでやっぱり王位継承問題が起きた。

イングランドに限らず、ヨーロッパの王位継承問題はどこでもそうだが、血筋や継承順位もさることながら、新王がカトリックなのか、プロテスタントなのか、はたまたイングランド国教なのかが実際上の重要な問題だ。そこでは周囲による様々な綱引きが行われる。エリザベス女王の死後もそうなった。とにかくエリザベス1世に子がいないのだから、誰か近い血縁者から次の王を出すことになる。ヘンリー8世は、代々テューダー家から王を出すことを遺言していたが、このときはそれに反する動きがあった。

イングランドとスコットランドは互いに争うような間柄だったが、それでも和を結ぶために両家の結婚も行われており、形式的にはスコットランド王家の子女にもイングランド王の王位継承権があった。当時のスコットランドの王はスチュワート家のジェームズ6世である。イギリスの次王を選ぶ人々の中に、スコットランドのジェームズ6世をイングランドの王に迎えようとする一派が現れた。

ジェームス6世の母、メアリ・スチュワート女王は、エリザベス1世と激しく対立して争った人物である。その対立の末に、女王メアリ・スチュワートは捉えられてイングランドに送られ、幽閉されて殺された。その息子をエリザベス1世の後継ぎとしてイングランドの王に迎えようというのだから、当然ながら激しく反対する勢力もあった。

ジェームズ6世を推す一派は、秘かにスコットランドに使いをだし、速やかにロンドンに来てイングランド王位につくように伝えた。スコットランドでは、これは罠だと考える者も多かった。戴冠を餌におびき出してジェームズ6世を殺し、スコットランドを征服してやろうという企みだと言うのだ。よしんば、手紙を出した者にはそのつもりはなくても、スコットランドの王を戴くなど絶対に承知しない一派がジェームズ6世の命を狙うのは間違いあるまい。前女王メアリ・スチュワートの末路を考えると、まったくもって当然の懸念だっただろう。

こうした情勢にも関わらず、ジェームズ6世は危険を承知の上でスコットランドのエジンバラを出発し、急いでロンドンへ向かった。案の定、スコットランド野郎の王宮入りを力づくで阻止しようという派閥は軍勢を繰り出し、主要な街道に陣を張って待ち構えた。だからジェームズ6世は、目立たないように僅かな伴を連れただけで、目立たない田舎道を行くしかなかった。

そうやってロンドンにたどり着いたジェームズ6世は、1603年7月25日にイングランド王として戴冠を宣言した。イングランドでは「ジェームズ」という名前の王は初めてなので、イングランドでは「ジェームズ1世」と呼ばれることになった。これにより1人の人物がスコットランドの王とイングランドの王を兼務することになり、両国は連合を形成することになった。ただしあくまでもそれぞれは別の王国であり、1つの国になったわけではない(一つの国になることに対しては、イングランド国民もスコットランド国民も反対した。)。ただし王は「グレートブリテン」という表現を使って両王国の一体性をアピールした。さらに両国の国旗を重ねた新国旗をつくり、「ユナイト」という硬貨を発行さえした。

イングランド王としてのジェームズ1世は、前女王エリザベス1世の路線を踏襲することで、イングランド内の反スコットランド派を(一応は)納得させることができた。