ジョン・ウェズリー・ヘインズ2世

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 ジョン・ウェズリー・ヘインズ2世(John Wesley Hanes II,1892.04.24 - 1987.12.24)は、ニューヨーク競馬協会(NYRA;New York Racing Association)の会長やアメリカ競馬名誉の殿堂博物館の館長を歴任し、「模範ホースマン」として名誉の殿堂入りした人物である。

 ヘインズ2世はアメリカ合衆国財務副長官やニューヨーク証券取引所の理事などを務め、アメリカの金融界、とりわけ「ターンアラウンド・マネジャー(経営再建家)」として名を馳せた。


生い立ち、家族と私生活

 ヘインズ2世はノースカロライナ州ウィンストン・セーラムで生まれた。父はジョン・ウェズリー・ヘインズ1世( John Wesley Hanes)、母はアナ・ジャネット・H・ヘインズ(Anna Jannette Hodgin Hanes)という。父のヘインズ1世は衣料大手のen:Hanesの創業者[注 1]である。ヘインズ1世はタバコ大手のR.J.レイノルズ・タバコ・カンパニーの大株主でもあった。

 ヘインズ2世の兄であるロバート(en:Robert March Hanes,1890-1959)は、1919年にワコビア銀行の出納係となり、1931年には頭取まで出世し、1956年に引退するまでその座にいた人物である。

 ヘインズ2世はバージニア州マディソン郡|のウドベリーフォレスト校(en:Woodberry Forest School)を経て、イェール大学を1915年に卒業した。ヘインズ2世は兄に似て金融に長けていた。

 ヘインズ2世は1916年にアグネス・ミッチェル(Agnes Mitchel)と結婚し、4人の子を設けた。しかしアグネスは1935年に他界、1937年にホープ・ヤンデル(Hope Yandell)と再婚し、1人の娘を設けた。

職歴

 ヘインズ2世は第一次世界大戦海軍に入った。終戦後はニューヨーク市へ出てウォール街の株式仲買業者であるチャールズDバーニー社(Charles D. Barney and Company。モルガン・スタンレー(en:Morgan Stanley Wealth Managementの前身)で債券のセールスマンとなった。

 ヘインズ2世はすぐに頭角を現し、事務所の共同経営者となり、1935年までに社長(senior partner)に昇格した。ヘインズ2世はニューヨーク証券取引所の理事(governor)となり、その高い手腕を買ったフランクリン・ルーズベルト大統領によって1937年に証券取引委員会の委員に任じられた。

 1938年5月、ルーズベルト大統領はヘインズ2世を財務省次官補(Assistant Secretary of the Treasury)に任命した。さらに10月にはロズウェル・マギル(en:Roswell Magill)の後任としてアメリカ合衆国財務副長官に任命した。

 ヘインズ2世の関心はもっぱら収支改善の研究(Revenue Revision Study)に向けられた。ヘインズ2世はその研究が一段落すると、1939年12月31日に辞任し、民間企業に戻ることにした。1940年アメリカ合衆国大統領選挙では、ヘインズ2世はルーズベルトではなく、対立候補のウェンデル・L・ウィルキーの支持に回ったが、選挙には敗れた。

財務再建のプロとして

 1940年6月、経営不振に陥った船舶・運輸業のユナイテッド・ステーツ・ラインズ社(en:United States Lines)と、その親会社のインターナショナル商船社(en:International Mercantile Marine Co.)は、経営再建のためにヘインズ2世を雇い入れた。ヘインズ2世は取締役の一員となり、両社の執行委員(executive committee)の委員長(chairman)に指名された。

 その1ヶ月後、ヘインズ2世の評判を聞いて、債務過多に苦しむ出版大手のw:ハースト・コーポレーションもヘインズ2世を招聘した。ヘインズ2世はハースト社の取締役会に入り、財務委員会の委員長に指名された。

 ヘインズ2世にはジョン・M・オーリン(en:John M. Olin)という長年の友人がいた。オーリンは化学製造業のオーリン社(en:Olin Corporation)の代表取締役社長であったが、熱狂的な競馬ファンだった。ヘインズ2世は1949年から10年がかりでオーリン社の再建経営にも取り組み、32年にわたって同社の取締役を務めた。

競馬との関わり

生産者・馬主として

 ヘインズを競馬の世界に引きずり込んだのは妻のホープだった。ホープはアメリカの馬産地の中心として知られるケンタッキー州ダンヴィル(Danville)の出身で、競走馬の生産を趣味にしていた。

 夫妻は持ち馬をアメリカ、イギリス、アイルランドで走らせた。ジョン・M・オーリンやジョン・R・ゲインズと共同所有したボールドビッダー(Bold Bidder、アメリカ古牡馬チャンピオン)が持ち馬の代表馬である。

 このほかロイヤルチャージャーナシュア(1955年のアメリカ二冠馬)、マイバブ(1948年イギリス2000ギニー)といった一流種牡馬の導入で知られている。

主な生産馬
主な所有馬

競馬会の重鎮として

 1953年にヘインズ2世はニューヨーク競馬協会(NYRA)の開催委員(steward)に選ばれ、1954年から1960年までは無報酬でNYRA会長を務めた。ヘインズ2世の在任中の1959年9月14日には、アケダクト競馬場の改築・新装開場が行われた。1960年に、ニューヨーク競馬記者協会(New York Turf Writers Association)はヘインズ2世を「競馬のために最も尽力した人物」と評した。

 ヘインズ2世は心臓の病のため、1961年の末にNYRAの職を退任、入院したが、のちに1968年から1970年まで、アメリカ競馬名誉の殿堂博物館の館長(President)を務めた。1982年には「模範ホースマン(Exemplar of Racing)」として名誉の殿堂入りを果たした。これは、2016年時点で、ヘインズ2世も含めて5人しか受けていないものである。

脚注

注釈

  1. 創業時の社名は「Shamrock Mills」

出典