ヨーク公

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ヨーク公、デューク・オブ・ヨーク(Duke of York)というのは、イギリス王室の第二王子に与えられる称号である。これに対し、王室の第一王子(王位継承順位1位)は「プリンス・オブ・ウェールズ(ウェールズ公)」(Prince of Wales)である。

「イギリス」というが、正確にはイングランド王国とウェールズ王国とスコットランド王国の3王国があり、一人の人物が3つの王位を兼任して連合王国を形成することで「イギリス王室」となっている。ヨーク公やウェールズ公という称号は連合王国の誕生よりも古く、イングランド王室のものである。

主な「ヨーク公」

ハノーバー朝時代

  • アーネスト・オーガスタス(1674 - 1728) - ヨーク公としては1716年~1728年。英国王ジョージ1世の弟。Duke of York と Duke of Albany の2称号を有していた。
  • エドワード・オーガスタス(1739 - 1767) - ヨーク公としては1760年~1767年。英国王ジョージ3世の弟。Duke of York と Duke of Albany の2称号を有していた。1760年に兄が22歳で国王ジョージ3世として即位した時点では、兄はまだ結婚したてで子がなかったため、エドワードが王位継承順位第1位だった。
  • フレデリック・オーガスタス(1763 - 1827) - ヨーク公としては1784年~1827年。競馬史ではおなじみの人物で、1816年と1822年にダービーを制覇している。

ウィンザー朝時代

  • ジョージ・フレデリック・アーネスト・アルバート(1865 - 1936) - ヨーク公としては1892年~1901年。まだ祖父が国王だった時代に生まれ、本来はプリンス・オブ・ウェールズとなる兄がいたが、その兄が1892年に28歳で早逝した。この時点では王位継承順位1位が父で、2位がジョージだったため、「ヨーク公」に封ぜられた。その後、1901年に父がエドワード7世として即位し、ジョージは王位継承順位1位のプリンス・オブ・ウェールズとなった。さらに1910年にジョージ5世として即位した。父エドワード7世がダービー3勝の成績をあげたのにはかなわないが、ジョージも競馬史にしばしば登場する。国王となってからでは、1913年のダービーに出走させたアンマー号を婦人活動家がレース中に乱入して妨害しようとして跳ねられて死んだ事件でよく知られている。
  • アルバート・フレデリック・アーサー・ジョージ(1895 - 1952) - ヨーク公としては1920年~1936年。ただし、1895年の出生時から1901年までは「Prince of York」と呼ばれていた。ジョージ5世の次男。1901年の祖父エドワード7世即位にともなって「Prince of Wales」となり、1920年に大学を卒業するとヨーク公となった。兄が次期国王となるはずだったが、その兄は1936年にエドワード8世として即位後まもなく突然、離婚歴のある女性との結婚を理由に退位したことで、不本意ながらジョージ6世として即位することになった。映画『英国王のスピーチ』の主人公である。競馬史では、牝馬三冠のサンチャリオットの馬主として知られているが、なによりもキングジョージ6世&クイーンエリザベスSに名を残している。

公と訳す語について

爵位制度の東西

英語の概念を日本語に翻訳するとして、日本古来の類似の概念を訳語としてあてるのだが、日本の制度と英国の制度は根本的にちがうので、ある意味では誤解を招くことがある。「公」「公爵」という語はその典型である。

もっというと、日本語の「公」とか「公爵」という単語は、元はといえば古代中国の制度から持ち込まれたものだ。周王朝の時代(紀元前1000年頃から紀元前250年頃まで)につくられた貴族制度が「公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵」の5段階で、これを今でも日本語として使っている。ヨーロッパ各国の制度をこれに当てはめて和訳しているわけなのだが、別にヨーロッパでは必ずしも5段階ではないので、いろいろ無理が生じるのだ。

いま日本語で「公」「公爵」として訳される英語は「prince」と「duke」がある。「prince」を「公」とすることもあれば「公爵」とすることもあるし、「duke」を「公」とすることも「公爵」とすることもある。そして厄介なことに、princeにはよく知られたもう一つの訳語には「王子」もある。

さらに、Princeの日本語訳としてよくみかけるものに「親王」がある。後述するように、ヨーロッパでは「Prince」は必ずしも「王の息子」限定ではないから、翻訳者は苦心して王の息子ではないPrinceのことを「親王」とするのだろう。日本では「親王」というのは天皇陛下の近親者一般に用い、たとえば第一皇太子も第二皇太子、天皇陛下の孫や弟もまとめて「親王」なので、便利といえば便利な訳語である。が、ヨーロッパの「Prince」は必ずしも王の近親血縁者とも限らないから、これはこれで誤解を生みかねない訳語なのだ。そうやってつきつめていくと、Princeはプリンスとするしかなくなるのだが、もっとポピュラーでない英単語ならば誰でも「特殊な概念なんだな」と気づくが、「プリンス」は子供でも「王子様のこと」だと知っている語であるから、これも難しい。悩ましいのだ。

皇太子と王太子

話は横道に逸れるが、もうちょっと厄介なことに、日本では、イギリス王室の第一王子のことを「チャールズ皇太子」と表現することがよくある。イギリスの王はキングであって皇帝エンペラーではないので、何をどうやっても彼は「皇太子」ではなく「王太子」なのだが。

ただし、これはわからないわけでもない。日本が開国した明治時代にはイギリスは確かに帝国だったから、その時代に大英帝国のプリンスを日本語で紹介するには「皇太子」とするのが正確であった。イギリスのプリンスが初めて日本の地を踏んだのは、1922年(大正11年)に、のちのエドワード8世が訪日したときで、当時は完全に「皇太子」であった。ただし、王国の継承者を「王子」、帝国の継承者を「皇太子」と表現して区別するのは日本語の語彙であって、英語ではKingの継承者もEmpireの継承者もどちらもPrinceなのだ。あくまでも「英語では」であって、他の言語体系には両者を区別するものもたくさんある。

日本でも少し古めの文献では、Prince of Wales(イギリスの第一王子)を「東宮」と訳しているものもある。これは言うまでもなく、日本の皇室では皇位継承順位第1位の人物を「東宮殿下」と呼ぶからで、なんで「東宮」なのかというと、昔の朝廷では第一王子は御所の東に屋敷を構えることになっていたからだ。東は「東西南北」という場合には1番であり、これを「春夏秋冬」にあてはめると東は春に相当するので、第一皇太子のことを「春宮」ともいう。英国の第一王子には東に宮殿を構える伝統などなく、Prince of Walesには「東」要素は全く無いのだが、これは日本語に置き換えるときに類似の概念をあてはめたからである。だからPrince of Walesの屋敷に「東宮御所」の訳語をあてるケースもある。(個人的なハイセンスだと思う)

プリンスとデューク

話を「公」に戻すが、「Prince」にはよく知られた訳語として「王子」があるので、日本人にとってはプリンス=王子=王の息子というイメージが強い。が、実際には英語圏では王の息子ではなく、単なる重臣にもPrinceの称号が授けられることがある。この称号は臣下の中でもトップクラスに偉い人物に与えられるものであり、封建社会のなかでは、王の息子という血縁者ではないけれどそれと同等の信頼が与えられた重臣の中の重臣ということだ。

そういうこともあって、「Prince」には「王子(=王の息子)」ではなく「公」の訳語もある。本来的な日本語の伝統的な「公」は、もともとの起源は古代中国のものである。殷とか周とか春秋戦国時代のレベルの古代中国では、いまでいうエンペラーに相当する人物は「天子様」であり、彼が世界の「王」だった。そして、いまでいうキングに相当する人物、特定の地域=国を治める人物は「公」と呼ばれていた。そして、周王朝では最高位の大臣を三公と呼んだので、日本でも貴人を「公」と呼ぶようになり、「公家」や「公卿」の語が生まれた。

一方、西洋の制度と単語は、大雑把に言うと古代ローマ帝国に遡る。古代ローマ語(ラテン語)では「第一」を意味する「Princepsプリンケプス」という語がある。principiaプリンキピア(「第一原理」)とかprincipalプリンシパル(「第一の」)とか大天使principal angelとかで用いられる。英語の「プリンス」はこれに由来し、原義的には「王の息子」ではなく「第一の」である。本来はこの語には王とか皇帝とかのニュアンスはなかったが、ローマ帝国では元老院で最も力がある人物のことを「Princeps Senatus(元老院議員セネターのなかの第一の人)」と表現し、そのうちこれが独裁者として振る舞ったので「プリンス」自体に支配者的なニュアンスが生じたのだ。

これとは別に、古代ローマ語で「指導者」を意味する「Duxドゥクス」という語がある。この語は、もともとは辺境の部族のリーダーを指す語だったが、彼らがローマに服属するようになると、辺境の部族の王というようなニュアンスが生じた。英語のデューク(Duke)はここから派生した語である。