ロイヤルメア
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mortimer
「ロイヤルメア」(Royal Mare)と呼ばれる牝馬は、サラブレッド黎明期の血統表にしばしば登場する。しかし、ロイヤルメアというのが何者なのかについては未解決の謎になっている。
『ジェネラルスタッドブック』には、ロイヤルメアについて次のような解説がある。
- 「国王チャールズ2世は、繁殖のために数多くの外国の牡馬・牝馬を求め、近衛大将を海外へ遣わした。チャールズ2世のために連れてこられた牝馬や、その娘たちのことを「ロイヤルメア」と呼ぶようになったのだ。」
歴史背景
この話を理解するためには、17世紀のイギリス史と競馬史の知識が必要になるので、サラッとおさらいしよう。
1603年初春、イギリスの“処女王”エリザベス1世が崩御した。エリザベス1世は生涯独身を貫いたため、直系の世継ぎがいなかった。これにより薔薇戦争以来7代120年余り続いてきたテューダー王家が断絶した。新王となったのは、敵国だったスコットランドの王、ジェームズ6世だった。なんで敵国の王が新王として迎えられたのかというと、政略結婚による複雑な王位継承関係と、旧教・新教をめぐる国内情勢と外交状況の結果なのだが、そこらへんの詳しいことは歴史の本を呼んでほしい。
とにかく、これによりスコットランドのスチュワート王家のジェームズ6世は、イングランドではイングランド王ジェームズ1世と呼ばれることになる。ジェームズ1世によって、何もない僻地の寒村だったニューマーケットが、王室の保養地として開発された。競馬はこの保養地における最上の娯楽の一つに位置づけられ、競馬場や牧場、調教施設が整えられた。これを受け継いだのがジェームズ1世の子、チャールズ1世だ。
しかしスチュワート王家を快く思わない人々もいた。熱心な新教信者(清教徒)だったイングランドの地方貴族である。清教徒からみると、娯楽というのは神の道に反する悪だった。安息日の日曜日は神に祈りを捧げるために教会にこもって平穏に過ごさなければいけない。競馬や、テニスや、狩猟や、舞踏会や、観劇や、読書などは、安息日の祈りを邪魔する悪なのだ。清教徒は1642年に反乱を起こした。イングランド国内は数年間の内乱に陥り、遂に国王チャールズ1世が捕らえられ処刑されるまでに至った。
この清教徒革命を率いたクロムウェルは、国王を処刑した後、イングランド中にあった王室牧場を荒らし回り、略奪した。建前は、神の道に反する不道徳な競馬を根絶やしにするということだったが、実際には名馬を押収して私物としたり、売りさばいて利益を貪ったと伝えられる。このためニューマーケットを筆頭に、イングランドの牧場は一時荒廃した。
クロムウェルが死ぬと反乱軍は勢力を失い、やがて1660年、かつて処刑されたチャールズ1世の子、チャールズ2世が再び王として迎えられた。王政復古である。チャールズ2世は若い頃に長い時間を過ごしたニューマーケットの復興に尽力し、競馬と牧場の再興のために精力を費やしたのだった。外国から駿馬を取り寄せたり、競馬のレースに賞金を出して大レースを創設したりした。これが近代競馬の創始である。
史実のロイヤルメア
話を「ロイヤルメア」に戻そう。『ジェネラルスタッドブック』による説明を冒頭に掲げたが、『ジェネラルスタッドブック』が常に歴史的真実を語っているとは限らない。それが「公式設定」であるとしてもだ。
なにせ、『ジェネラルスタッドブック』第1巻が編纂されたのは1791年のこと。チャールズ2世の時代から100年以上も経ってからなのだ。だから『ジェネラルスタッドブック』に記載されているからと言って、その「公式設定」が歴史的真実であるかどうかは別問題なのだ。
『ジェネラルスタッドブック』に書かれたロイヤルメアについての解説には全く根拠が示されていない、という批判は18世紀から行われていた。だが、ほかに物証や史料があるわけでもない。謎なのだ。
実際のところ、チャールズ2世を筆頭にスチュワート王家の歴代王が競馬にのめり込み、競馬の庇護者であったことは確かである。だが、チャールズ2世が自ら競走馬を生産したかどうかについては怪しい。王宮の厩舎ではいくらか馬を生産していたかもしれないが、大規模に競走馬生産をやっていたということについては、それを示す実際上の証拠がないのだ。
ロイヤルメアについての諸説
『ジェネラルスタッドブック』に書かれているのとは違う、史実のロイヤルメアについては古くから研究が行われてきた。いくら研究しようとも「史料」が存在しないので、どこまでいっても推測にとどまるのだが、多くの歴史家の推測はいくつかのパターンに収束する。
今では、これら3説のうち後者の2説が有力視されている。いずれの場合でも、「ロイヤルメア」が純粋な東洋種であった可能性はほぼ皆無だ。どちらも、もともとはイギリス在来馬で、タドベリー原産か、ヨーク州原産ということになる。
古典的な説
チャールズ2世のもとには、内外の王侯貴族から良馬が寄贈されたはず。チャールズ2世の王妃はポルトガル王女のカザリン・オブ・ブラガンザであり、当然、嫁入りのときにはヨーロッパを代表する名馬の産地だったポルトガルから、駿馬が贈られたことだろう。それは間違いなく、ポルトガル産のルシタニア種だったはずだ。
チャールズ2世の実母はフランス王女であった。だから、清教徒革命のときにはチャールズ2世はフランスへ亡命していた。チャールズ2世がイングランド王として返り咲いた際には、縁戚のフランス王ルイ14世はおそらく、祝儀としてフランスの名駿をチャールズ2世へ進呈しただろう。それはおそらく、当時のフランスで手に入る最高級のバルブ種だっただろう。
チャールズ2世は、1660年に亡命先からイングランドに帰還するにあたり、ケントの浜に上陸した。これを海岸まで出迎えたのがウィンチルシー伯爵(Earl of Winchilsea)であった。まもなく、ウィンチルシー伯爵はイギリス大使としてオスマン帝国に赴任し、4年間滞在した。伯爵は任期を終えて母国へ帰るにあたり、トルコで良質なアラブ馬を入手し、チャールズ2世に献上したはずだ。
これらの良質な東洋種が「ロイヤルメア」と呼ばれるようになったのだという。
しかしこれらはいずれも「推測」に基づく伝承に過ぎない。仮に史実だとすると、いずれも東洋種(ルシタニア種はバルブ種の系統)ということであり、イングランドの在来馬とは違う特徴を有していたはずだ。しかし、この俗説を裏付ける史料も反証も皆無であり、検証しようもない。そのため歴史家からはほとんど相手にされていない。
王室牧場の牝馬説
1649年にチャールズ1世がクロムウェルによって処刑された。この時にクロムウェル一味によって、タトベリー王室牧場にいた牝馬が売り払われた。その時に流失した牝馬や、その子孫の牝馬のことを「ロイヤルメア」と呼んでいたらしい。これらの馬はいずれも、当時のイングランドでは最上級の牝馬だったという。
1660年にチャールズ2世が王位に就き、王室牧場を再興すると、各地に散逸していたロイヤルメアたちの何割かが取り戻されたのだという。そのなかには、ロンドンの「フェンチャーチ街」の地下室で匿われていたという名牝、その名も「コフィンメア(Coffin Mare)」もいる。匿っていたのは、ヨーク州北部の馬産家プレイス氏と伝わる。(『ジェネラルスタッドブック』には、「Coppin Mare」という牝馬が掲載されていて、これが「コフィンメア」と混同されているのだが、実際はコフィンメアはCoppin Mareの母の母であろうと考えられている。)
ダーシー家の牧場の牝馬説
チャールズ2世が競馬に入れ込んでいたことは確かだが、自ら競走馬生産までしていたという証拠はない。明確に判っていることは、チャールズ2世はヨーク州のある人物から継続的に競走馬を仕入れていた、ということだ。
ヨーク州北部のリッチモンドは、古くからイングランドを代表する馬産地である。そのリッチモンド近郊のセドベリー(Sedbury)という村に、ダーシー家(D'Arcy)という馬産家がいた。父もジェームズ・ダーシー、子もジェームズ・ダーシーという。ややこしい。ダーシーズイエロータークとかダーシーズホワイトタークとかにその名を残している家だ。
チャールズ2世はこのダーシー家と契約を結び、毎年、800ポンドを支払って12頭の駿馬をダーシー家から仕入れていた。100年後に創設されるダービーの賞金が500ポンドあまりだったのだから、17世紀の800ポンドというのはとんでもない金額である。
このダーシー家の牧場で、チャールズ2世に産駒を提供するために繁殖牝馬として繋養されていた牝馬が、「ロイヤルメア」と呼ばれていたらしい。だとすると正確には、産駒は王室馬ではあるが、母馬は民間の馬だから「ロイヤル」ではないわけだが、ともかく「ロイヤルメア」と呼ばれていたという。