ロベール1世描き下ろし版A
Crouch
父リシャール2世は敬虔な人物だった。彼は、まだ異教徒の習俗や伝統が根付いていたノルマンディー公国の文化を、完全なキリスト教文化に塗り替えた。先代まではルーツであるスカンジナビアと政治的なつながりがあったが、リシャール2世の時代には北欧とのつながりはほとんどなくなり、フランス王国とのつながりが強くなった。ノルマンディーはキリスト教化・フランク化した。
ロベールの幼少期の逸話が残っている。リシャール2世はイースターの時期には決まって、夫妻で館にこもってキリスト教に関する書物を箱詰めにして部屋に持ち込み、読書をした。それが済むと家族や家臣たちと感謝祭の食事をするのだが、修道士たちの食堂に赴いてこれを行い、その席には司祭たちを同席させ、リシャール3世とロベール1世に命じて司祭へ食事を運ぶなどの給仕をさせた。
ただしこうした記録は、フェカンの僧によるものであり、彼らが過度にリシャール2世を美化したのではないかという疑念もある。
僧らの記録では、幼少期のリシャール3世とロベール1世の2人をまとめて「後継ぎたち」と表現している。これはおかしくて、普通ならば兄のリシャール3世が後継ぎであり、弟のロベールは「後継ぎ」ではない。これは、僧らが意図的に、兄弟に優劣をつけないように配慮して書いたのだろうと思われている。すなわちこの文書が書かれた頃には、リシャール2世が老齢で病を得ており、兄弟が不和になっていたので、そこらへんに気を使ったのではないかと。もしくは単にフェカンではいつもこんな漢字だったのかもしれない。
en:Dudo of Saint-Quentinは、リシャール2世に献じるために年代記を書いた。これはリシャール2世の死の間際に献上されたが、そのなかでもリシャール3世とロベール1世については慎重に書いている。Dudoは、もっと前の代のノルマンディー公の代替わりのときは長子相続のことを明確に書いている。
歴史家の中には、ヴァイキングの伝統的な長子相続の風習を、リシャール2世がフランク人風の分割相続に変えようとしていたのではないかと推測する者もいる。
父が死んだとき、リシャール3世もロベールも成人していた。リシャール3世は既に戦場に出て戦士として活躍していたし、子供も何人書いた。
1026年8月23日、リシャール3世はフェカンで、まだ父親が病で苦しんでいる間に、襲名をした。しかし弟はこれに不服を示した。1020年頃までノルマンディー公家は平和だったが、この頃は内紛になった
リシャール2世が家督を継いだときは、弟たちがいたけれど、皆かなり年が離れて若かった。一番歳が近かった(2世の弟の)ロベールは、990年頃にルーアン司教に据え、公家の後継者争いからは遠ざけている。(その後、たいした影響力のないcount of Evreux(エヴルー伯)の位も与えている)ここらへんは、リシャール1世が、後継者争いが起きないように腐心していた。リシャール2世にはそういうのがなかった。
現代の歴史家は、リシャール3世とロベール1世のちからが拮抗していたためにこうなった、とみている。また、1026年まで、ノルマンディー公国にはこれといった外敵がいなかったことも一因である
B
ロベール1世の誕生年は不明。1006年頃から1010年頃と推定している。 父のリシャール2世とジュディスが結婚したのは、古典的には、1008年だったということになっている。しかしダグラスはこれはつじつまが合わないとし、それよりも5年ほど早かったはずだろうとしている。となると、妊娠期間とかも考えると、次男であるロベール1世が生まれるのは早くても1005年まで。直接的な根拠となる史料はないのだが、このあとの出産のことを考えると、1008年よりも早かったと仮定しなければ辻褄が合わない [2]
ウィリアム1世が生まれたのは1027年から1028年、おそらく1028年秋[2]
ロベール1世は6代目のノルマンディー公[2]
Herleve[2]
同時代の作家は妻のことは記録していない[2]
その父親の名前はFulbert[2]
「Fulbert」なる人物はなめし革職人[2]
Bates
p21
[3] ロベール1世はリシャール2世の次男
1027年8月6日に兄リシャール3世を継いでノルマンディー公になる
母はへrぇゔぇ
その父はファレーズのundertaker
ウィリアムが生まれたときロベール1世は20代前半
Hiesmoisの代官 父リシャール2世が死ぬ直前、1026根に命じられた
p22
Herlevとの馴れ初めや、Herbveはウィリアムを産む前に子どもがいずれ王になるという吉兆を得ただとかいろいろロマンチックな逸話が伝承としてあるけども、たいていは後世の話。ウィリアム誕生に関連することは確実なことはほとんど何もわかっていない。・
正式な結婚はしていない
だけどへrゔぇの親戚がいくらか官職に取り立てられたことは確からしい。
娘アデレード がロベールとへrゔぇの子だという可能性はある。It Is Possible ただし正確なところは不明 ウィリアム1世の妹であることは確か(父が一緒化、母が一緒化、全部一緒化)
のちにJHえれゔぇはHerlum de Contevilleに嫁ぐ。セーヌ川河口付近の南岸に領地をもつ
この再婚は、1035年1月よりも少し前だったと考えられr。
1035年1月にエルサレムへ向かった
ウィリアムが生まれた時点では、ロベール1世はまだノルマンディ0項ではなかったし、ゆくゆくはノルマンディー公になるという身分でさえなかった。もしそうなら、結婚しろという圧力がj架かるはずだった。しかしロベールは結局30ちかくまで独身のままだった
ヴァイキングはもともと異教徒で、キリスト教徒らしい習慣というものをもともとは有していなかったし、当時の庶民はまだそういう感じだったけども、それでも11世紀のノルマンディー広告では、君主たるものはきちんと教会で結婚式をあげるというのは当たり前になっていた
ノルマン史研究者のRodulf Glaberは、ロベール1世には、イングランド王クヌートの娘との縁談があったのかもしれないと示唆する。
p23
いずれにせよ結婚しなかった
デカkル直前に、ノルマン人領主たちを集めて息子を跡継ぎとして忠誠を誓わせた。アンリ1世には貢献を頼んだ。
和書
「悪魔公」の名は、形式上はキリスト教徒ながら、ノルマン人古来のオーディン信仰を重視したことによるともいう[4]。
脚注
注釈
出典
書誌情報
- 『William the Conqueror: The Norman Impact Upon England』,David Charles Douglas,University of California Press,1964,ISBN 0-520-00350-0
- 『William the Conqueror』,David Bates,George Philip Ltd,London,1989,ISBN 0-540-01175-4
- 『Guillaume le Conquérant en 58 étapes/William the Conqueror in 58 stages』,OREP editions,Cully,2007,ISBN 2-912925-82-7
- 『The Normans : The Histry of a dynasty』,David Crouch,Hambledon and London,2002,ISBN 1-85285-387-5
- プルーデンス・ジョーンズ、ナイジェル・ペニック;山中朝晶訳 『ヨーロッパ異教史』、東京書籍、2005年。ISBN 4-487-79946-5