横浜競馬場

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疑問点

  • 全体を査読するのはしんどいので、断片的であることをご容赦ください。今回はひとまず『日本レース・クラブ五十年史』を眺めてみました。
  • さきに結論を言うと、馬事文化財団のサイトは、当然に『日本レース・クラブ五十年史』を踏まえてのものでしょうから、馬事文化財団のサイトを基にして小気味よくコンパクトにまとめるというのは悪くないと思います。(ただし『五十年史』といまの記事を較べてしまうと、抽象的で具体性に欠く叙述が多いと感じます。)
  • まずこの『日本レース・クラブ五十年史』(1970年)について説明しておきます。この本のおおもとになっているのは、
    • F.M.Tegner,“THE NIPPON RACE CLUB (YOKOHAMA RACE CLUB) 1862-1912”,1912
です。これは、1911年から1912年に日本レース・クラブの理事長を務めたF.M.タイナーが執筆したものです。全文英語です。これを1927年に和訳したものが
    • 『日本レース・クラブ小史』
です。訳者名は不詳です。これらの英語版・翻訳版とも、原典は現存しませんが、再版本が残っています。
『日本レース・クラブ五十年史』は、上記の英語版・翻訳版をベースに、幕府関係史料、『横浜沿革史』『横浜市史稿』『横浜市史』や当時の新聞、書簡、等をもとに再研究してまとめられたものです。巻頭の絵図や巻末の年表もあわせると80余ページあります。これに加えて、上記の翻訳版(約30ページ)・英語版(27ページ)も採録しています。(本の中でも何度も出てきますが、横浜競馬場に関する資料のかなりの部分が焼失しており、不明点も多い。)
問題としては、この本自体が50年前のものなので、2021年の今となっては新説が登場しているというところですね。
  • この本は、基本的に編年体で体系的に具体的に書かれています。なので全体像や話の流れはつかみやすいです。人名、日付、数値が具体的にたくさん出てきます。これに比べると今の記事本文は、抽象的です。また、断片的な情報源をツギハギしている感じで、ちょくちょく急に別の話題が出てくる感じがします。
  • 本文は、一次資料の引用も多数含んでおり、二次資料としては相当「詳細」です。たとえば、いまの記事では「内部対立や外国人居留地の経済力が衰えたことによる財政難に加え」でサラッと済まされている事柄が、「根岸競馬場の借地料問題」「競馬場借地料問題の解決と日本レースクラブの設立」など数チャプター、およそ11ページに渡って詳述されています。これを使うと、「◯年◯月◯日に誰それがどこの役所の誰それ宛に送った書簡では『ホニャララ』という文面で地代YYYY円を要求し、それに対して誰それが◯月◯日の返書でXXXX円にしろと要求し、それに対して誰それが◯月◯日にWWWW円で打診し・・・」みたいなことを具体的に延々と詳述できるのですが・・・そこまで細かく書きたいですか?って感じですね。
  • この本には大量の人名・地名の固有名詞が登場します。歴史・地理好きとしては、そういうのが具体的に出てくるほうが楽しいですね。たとえば、横浜競馬場の建設にあたって測量を行ったのが英国陸軍のMajor Wrayであるとか、建設監督は工兵中尉(小史では大尉)Bond氏(Lieutenant Bond of the Royal Engineers)であるとか、神奈川奉行の宮本小一が幕府側の担当で、彼が金4384両の見積もりを作り、認可したのが勘定奉行の小栗上野介だとか。こういうところに青リンクが増えると、記事が生き生きするというか、「競馬」以外の横方向へ話が広がって楽しいと言うか。運営側の理事役員や、馬主には、日本近代史や横浜史、産業史に関わる人物がいっぱい出てきます。
  • (可能なら)この資料を使って増やしてほしいなと思うのは、この施設の目的は「競馬のため」だけではない、ということですね。記事の中でも生麦事件とかが出てきますけど、要するに、ヨコハマの居留地にいる外国人は、彼らの日常の習慣として乗馬したいわけですよ。で、馬に乗って気分良く全力疾走させるのにうってつけなコースが東海道。道が整備されているから。ほかは整備されてないから。ところが東海道に来られると生麦事件が起きるから(日本人は馬に乗っても全力疾走なんかさせない)、どこか他所で好きなだけ乗馬してください、ということもあって東海道から離れた根岸が選ばれ、4000両も注ぎ込んで、思いっきり馬を走らせることができる走路を作った。なので、「競馬」開催期間以外は、外人がここで乗馬して気晴らししてたわけです。風光明媚なところで乗馬して気分良くなるためにわざわざ競馬場内に樹木を植えたりもしている。そのうち、乗馬して良いのは競馬クラブの会員だけになる。それをさらに制限しようとして、分裂してYRAを作ったり(ニュージーランドやオーストラリアとかでも同じことが起きてますね)。
  • 走路については、『横浜市史・資料編三』からの引用のかたちで、設計時の図面「根岸村地内 外国人輪乗馬場其外絵図」が掲載されています。そこには「輪乗馬場惣長九百弐拾七間」と記されています。これが「927間」の根拠ですね。一方、走路の幅については、「13間」ではなくもっと詳細に記されていて、場所ごとに「是辺ヨリ巾拾間」「是辺ヨリ巾拾五間」と書かれています。雑にいうと、1コーナーから2コーナーをまわるあたりまでが10間で、向こう正面から3角・4角まわって直線が15間、これに加えてスタンド側には4間の馬見走路もある。「13間」というのは、平均値的なことじゃないかなあと思います。
  • スタンドについては、当初の一頭観覧席があり、明治4年にはその塗り替え費など1000ドルを明治政府が下賜している。それが明治6年に「祝融」で焼失し、その再建が問題になる。財源的な意味で(これも財政難に絡んでいる)。で、天幕を張って、門番をおいて一等観覧席の代用にするとかしないとか。明治22年に再建できたのは、パリミチュエル馬券を採用したことで財政にゆとりができたから。そこらへんのストーリーが書けていないと思います。
  • 「全盛期」節は、年代や趣旨、一般論と横浜競馬場固有の話が入り乱れていて、よくわからないと思います。話が明治から昭和に飛んで、また明治に戻ったりしています。大雑把にいうと、古典黎明期(江戸時代から明治初期)、困難期(明治6,7年あたりからの財政やばい期)、明治20年代からの回復期(パリミチュエル馬券導入)、明治30年代の繁栄期(豪サラ導入、馬種改良)、そして「全盛期」=日清日露戦争以後(国策競馬期:明治37-40)、絶望期(明治41馬券禁止)、その後の補助金時代。。。何をもって「全盛」とするのかはよくわかりません(観客動員とか、売上とかね)が。なんというか、「経営状況(バランスシート)」の話と、「レースの変化」と、「馬種の変化」と、「施設の整備」と、「外交の場としての役割」の話とを、もう少し切り分けて整理したほうがいいと思います。明治大帝は13回か14回、横浜競馬場に行幸しています(資料により異同がある)。明治32年の行幸が最後で、これは不平等条約改正が成ったからです。「外交の場」としての役割はここで終了になりますが、本文では「競馬はその存在価値を失い、一時は存続すら危ぶまれる事態にまで陥った」(これが横浜競馬の話なのか、一般論なのか不明瞭)とあるのですが、『小史』ではむしろこの明治32年からを「繁栄」の時期と位置づけています(豪サラ&馬券黙許)(M39の「黙許」は池上競馬場に対するもので、ヨコハマはそれ以前から黙許)。だからこそ馬場内の土地を買収してゴルフ場にしてるわけで。
  • 開催は半世紀の歴史があるので、いつの時期のレースを「主なレース」みたいにするかは考えどころだけど、初期は「カップ競走」

「プレート競走」「パース競走」が主流で「ステークス競走」が少なめ(のちに禁止)なのは注目(要するに賞金の出どころが違う)。

  • いろいろ書きましたが、これは『五十年史』にあたったからこういう細かい話がどっさり出てくるわけなんですけども、そこらへんで簡単に入手できる本ではないです。そこまで詳細に書かなくてもいい、という考えもあると思いますし、現状は「馬事文化財団」をベースに一般の人にもわかりやすくコンパクトにまとまっているという点ではよいとも思います。--Julyfestival 2021年7月22日 (木) 04:25 (JST)

年表

  • 1858(安政5年) - 修好通商条約
  • 1859(安政6年) - 神奈川(横浜)開港
  • 1861(文久元年) - 横浜で競馬開催(横浜新田競馬場
  • 1862.9.14(文久2年8月21日) - 生麦事件
  • 1862.1.8(文久2年11月9日) - アメリカ公使フロイン、幕府へ横浜居留地に競馬場新設を建議
  • 1863.8.15(文久3年7月2日) - 薩英戦争
  • 1864.9.5(元治元年8月5日) - 下関事件
  • 1864.12.19(元治元年11月21日) - イギリス全権公使オールコック・アメリカ弁理公使フロイン・フランス全権公使ロセス・オランダ総領事公使ポルスブルーグと、幕府のあいだで「横浜居留地覚書」を締結。(吉田新田)
  • 慶応元年11月 - 幕府は、建設地を吉田新田から変更する旨の申し入れを行い、賛同を得る。イギリス士官立ち会いにより、イギリスは根岸村内を希望。幕府はこれに反対するが、イギリスの意向に押し切られる。これにより、遊歩道350間余を取り潰し、競馬場とすることが決まる。
  • 2年2月 - イギリス臨時公使、これを承認
  • 2年3月 - 神奈川奉行、図面と見積もりを作成。建設費用として金4,384両余と算定。勘定奉行へ上申。
  • 2年4月 - 勘定奉行小栗上野介により承認
  • 2年6月 - 着工
  • 2年9月1日 - 竣工※



走路

1864.12.19の覚書における走路はこう

  • 周囲日本里程十八町(英法一里)ニシテ、既に方位は示し置たる掘割の向なる地所・・・