競走馬の特筆性の話
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たくさんの方にコメントを頂き、感謝します。
たしかに私がリバートを用いたのは軽率であったでしょう。それは認めます。一方、Quark Logoさんは私の見解を1から10まで否定してほんの僅かも譲歩せず、(私も長文書きなので人のことはいえないのですが)これだけの長文で散々に私を批難しました。この方を相手に1対1で「対話」や「合意形成」することは困難だったでしょう。第三者さんに介入していただいたことで、その発言をいくつか撤回していただいたわけで、ようやく「対話」が成立する土壌が生じたという意味で、コメント依頼を起こした意義はあったと感じております。
一方でQuark Logoさんの申し立てを全く認められない点もあります。これは明確にしておきます。
- 柒月例祭が過去のことを持ち出した
- これは完全な嘘です。
- 最初に「過去」の話を始めたのはQuark Logoさんです。1月23日 9:47(UTC)の編集です。ここでQuark Logoさんは2015年12月23日の私の発言を持ち出しました。
- なので私は、いえいえ、なんでその発言だけ取り出して、他の発言は見ないんですか、と指摘したのです。そのやりとりと並行して行われたWikipedia:井戸端/subj/脚注節のサブセクションに参考文献を落とすレイアウトについてでは、「統一」は多くのベテラン編集者によって否定的見解が寄せられていますし、私は2015年12月25日の時点でこう言っています。
- こうした、第三者も含めた一連のやりとりの全体を無視して、一つの発言だけをピックアップして言質を取ったかのように示して「過去」を根拠にしようとしたのはQuark Logoさんが始めたことです。ですので私は、それは違いますよ、一連の経緯や他の多くの第三者の発言もきちんと読んで下さい、と示したまでです。
- 私が「記事の所有権」を主張したとの説明について
- これは私の説明や言葉遣いが稚拙であるせいで、Quark Logoさんに伝わらなかったのかなあと思っています。確かに私は「執筆者としての自負」という表現をしましたけれど、私はQuark Logoさんに「他利用者に敬意を払い、そのやり方を尊重してほしい」と言っています。敬意を払う対象は「私(柒月例祭)」ではなく、全ての他の利用者なのです。「記事は私のものだ」と言ったわけではありません。
- おそらくもっと明確に申し上げれば誤解が生じなかったのでしょう。「執筆者の自負」とか「敬意」というのは、「敬語を使え」とか「お前は口を出すな」ということではないのです。しっかりした調べ物をした上で行われた編集には、それ相応の根拠があるだろうという推測をして、そこに手をつけるにあたっては慎重に、すなわち予めノートページで事前にそれ相応の根拠を示したり、相談や質問・提案などを行って合意形成を試みよ、という意味なのです。多くの利用者は実際にそうやっています。そうした手順を踏むことは「記事の所有権」とは関係ありません。
- WP:PRESERVEには、改善を試みるのはいい、ただし「どのような方法で改善するにしても、十分に検討を行い慎重さを忘れないように」とあります。十分な調査や検討が行われたであろう記事に向き合うときには、それ相応の調査を行ったり事前の提案を行うことを、「執筆者に敬意を払う」と表現したのです。それが通じなかったのは私の言語能力が低いからでしょうけれど。
- Quark LogoさんはWP:EPを根拠にし、「すべての編集について前編集者に相談する必要も義務もないのです。」と主張しています。確かにそこには大胆な編集を認める記述があります。しかしQuark Logoさんは関の五本マツの時に、しっかりした調べ物にもとづいて書かれた記事に対して、独断で断定し改名を行って失敗したという前例があります。その際に他利用者から受けた指摘から学んでほしいのです。Quark Logoさんは関の五本マツの件は無関係だと主張していますが、私から見ると、きちんとした調査や根拠を示さないまま何の相談もなく独断で強行する、という姿勢は同根であり、それは過去において既に他者から指摘されていることだ、と示したのです。
- 対話拒否?
- 今回の場合、私は多くの文献を調査した結果をもとにいろいろな判断を行って執筆しています。それを修正するならば、それ相応の根拠を示してくれと言っているのです。しかしQuark Logoさんは個人的な感覚しか示しておらず、それで自説の正しさを主張して一歩も譲らない態度をとっています。
論点 | 柒月例祭の根拠と主張 | Quark Logoさんの根拠と主張 |
「内容」節 | 多くの文献では「内容」は大した説明がない。節を設けるにせよ、後段のほうでいいのでは。節名だけ設けて中身は空っぽ、自分でスタブを貼るというのはあんまりだ。[1] | 当然必要。「普通は内容をある程度先に言わないとどういうものであったのか説明は難しいと考えます。[2]」 |
私は実際の文献がそうなっている、ということを根拠にしています。Quark Logoさんは「普通はこうなんだからこうだろう」と、一般論と個人の憶測を根拠にしています。
私はQuark Logoさんの主張そのものが滅茶苦茶だとはいいません。「普通はこうなんだからこうなんじゃないか」と推測すること自体はおかしなことではないです。しかし普通は、そうした「推測」の場合には、ノートページで提案する程度でしょう。普通はこうだと思うんですけど、実際に調べたわけではないので、実際のところはどうなんですか、と提案することは妥当でしょう。そのうえで、実際の文献ではこうなってますよ、と回答があれば、なるほどそうなんですね、わかりました。で終わります。こうしたやりとりは、多くの記事で頻繁に行われています。しかしQuark Logoさんは「憶測」で「断定」し、そのまま編集を行う。事情を説明された後も、一歩も譲らない。
論点 | 柒月例祭の根拠と主張 | Quark Logoさんの主張 |
引用部の画像 | 「同時代人」ではないエンゲルスを使ったり、ルターの画像を何度も使用する必要はないのでは。[3] | 他の発言で発言者の画像を掲示するなら全部するべきでしょう。しないなら全部の小画像をカットするべき。[4] |
私は私なりの考えの「根拠」を示しました。私が参照した数多くの文献上でも、ルター、テッツェル、フッテンの画像が使用されている、ということもその「根拠」のもとになっています。一方Quark Logoさんは「全か無かのどちらかだ」という結論だけを示し、その判断の根拠を示しませんでした。この点についてネイさんから再度確認がありましたが、そこでようやく「統一感」を根拠だと述べました。ここでも結局Quark Logoさんの見解は一般論でしかなく、記事の個別の事情は考慮していません。
Quark Logoさんが、具体的に記事の中身や情報源についての検討を行わず、一般論・統一感だけを根拠に編集を行ったのは他にもあります。「参考文献」と「関連図書」の分割がまさにそれです。私は実際に執筆にあたって参考にした文献を「参考文献」としてリスト化しました。Quark Logoさんは「出典に使われていない」というだけで機械的に判定し、「関連図書」節に文献を移動しました。これもQuark Logoさんは記事の中身などどうでもよく、形だけの統一性を求めているに過ぎないということになります。
- 統一性のためだけに構成を変更する行為については既に否定されている
- Quark Logoさん自身が井戸端に提議した案件です。そこでは、管理者であるKs aka 98さんのような「熟練した複数の編集者、管理者、調停者から(WP:IDIDNTHEARTHAT)」、繰り返し、「スタイルマニュアルは唯一つの画一性を定めたものではない」と諭されているわけです。
ノート:95ヶ条の論題で私はいくつかの点で、もともとの編集の意図や根拠を説明しましたし、いくつかの点については検討や修正や譲歩すると申し上げましたが、Quark Logoさんは私の見解を全てはねつけ、一歩も譲らず、井戸端で問うと言い、私を批難しました。これは対話とは言いません。一方的な主張です。
今回の問題を「編集合戦」と捉えるならば、その発端は、Quark Logoさんによる編集ということになります。基本的に、この編集では、具体的に新しい出典を示したり検証可能性を高めるなどの加筆はなく、スタイルの修正にとどまっています。
Quark Logoさんによる編集も多岐に渡っています。私はその全てを否定するわけではないし、いくつかの点については受け入れたり譲歩したりすることはできます。一方、Quark Logoさんはご自身の編集は全て一歩も譲らないと言います。これは対話ではない。
前の編集者がどうであれ、Quark Logoさんは自由に編集する。しかしそれを更に編集しようとするならばQuark Logoさんの合意を取り付けなければいけない、だなんて、変じゃないですか?だとすると、結局Quark Logoさんが記事の所有権を主張しているのに等しいです。
私が編集したものを土台に、1点ずつ合意形成をしましょう。そのうえで、この変更については合意する、この変更については合意しない、といって合意できるものについては修正をすることは吝かではありません。まあ、順序はどちらでもいいのですよ。Quark Logoさんによる編集を土台にしてもいいですが、結局、合意できないところは元に戻すまでです。
結局Quark Logoさんの主張は、「Quark Logoさんは何でも自由に編集できる。しかしQuark Logoさんのスタイルを覆すときはQuark Logoさんの合意を取り付けないと妨害だ」ということになります。おかしくないですか?
それを言うならまずQuark Logoさんが「前の編集者のスタイルを覆すのに合意を取り付ける」べきでしょう。
ああああ
2014年に、皆様の賛同をいただいてWikipedia:競走馬の特筆性判断の基準と独立記事作成についてのガイドラインを「草案」としました。その際、2015年・1016年を「試行期間」とし、その間の案件をフィードバックしつつ、2017年から「ガイドライン」として運用しましょう、ということにしておりました。で、その2017年が近づいて参りましたので、ここらへんの予備的な議論を始めたいと思います。
- 2年間の案件のフィードバック
- 修正などが要るか
- ガイドラインとしてよいか(一定の拘束力が発生する)
話はここらへんのことになろうかと思います。僭越ですが、この件に関するサブページ(プロジェクト‐ノート:競馬/基準文書に関する意見交換201612)を作成し、そちらでの意見交換を行いたいと思います。
現時点での個人的な考えを言うと、少なくない方の賛同をいただいて草案になったものですし、基本は10年以上前からのPJや関係議論の積み重ねによって形成されたものですので、軽々しく扱うのもいかがなものかと思いつつ、けっこうガッツリ直したほうがいいかなー、とも思っております。
しろん
この文書の議論をする前に、前提を確認しておく必要があります。
- 「特筆性」という表現に関すること
「特筆性」という用語はWikipedia:独立記事作成の目安(ガイドライン)の中で定義されている、ウィキペディア専用の特殊な用語です。世間一般で「このことは特筆に値するよ」という言い方をしますが、それとは別の概念です。
この語はもともと英語版の「notability」の訳語として作られた造語です。独立記事作成の目安に関する議論の中で、私は、「特筆性」という訳語は世間一般の「このことは特筆に値するよ」と混同しがちだから、「notability」の訳語として「WP採項要件」という表現に改めてはどうか、という提案を(冗談混じりで)行ったこともあります。
この「特筆性」は、一般的には(WP:GNG)以下のような条件に合致する場合に「特筆性があると推定される(WP:GNG/P)」ことになります。
- 対象と無関係な(WP:GNG/IOTS)
- 信頼できる(WP:GNG/R)
- 情報源で(WP:GNG/S)
- 有意な言及があること(WP:GNG/SC)
これはあくまでも「一般的な目安」であり、特定の分野別の基準を目安とすることもできます。競走馬についてはこの「分野別基準」にあたります。
- ※「一般的な目安あるいは各分野での特筆性の基準を満たすならば、取り扱う対象は、独立記事として作成、収録するだけの価値を有すると推定される、となります。(WP:N)」とありますから、一般的な目安か、専門分野での目安か、いずれか一方をクリアすればよい、と考えるのがよいでしょう。現状の草案では「Z.その他の特筆性」があり、これが「一般的な目安」に相当しています。
- 記事の削除との兼ね合い
Wikipedia:削除の方針では「ケース E: 百科事典的でない記事」(WP:DP#E)という規定があります。このうち
- 百科事典的な記事に成長する見込みのないもの。
- 百科事典に記載するほどの著名性・特筆性がない記事。
この2つを根拠として、削除依頼が提起されることがしばしば起こります。
この「著名性・特筆性がない」についての解説文書がWikipedia:独立記事作成の目安であり、競走馬については「草案」がそれを担う格好になります。
特に特筆性のガイドラインを満たしていない記事(WP:FAILN)がポイントになります。
そこでは
- 情報源を探すこと。
- 調査を依頼すること。
- 適切な統合先を検討すること。
- これらを充分に試みてもダメな場合に、初めて記事の削除を検討すべしとなっております。
- 記事のあり方、基本的な考え方
- スタブ・サブスタブが乱造されてしまう。懸念、予防としての対策が必要。
- サブスタブがあっても困らない
という相反する意見があるようです。
- 「乱造」という表現の中には「悪いこと」という意味合いが内包されています。もっと中立的には「量産」というべきでしょう。「サブスタブがあっても困らない」派にしてみれば、それが量産されることは「乱造」ではありません。
- 〔削1〕低質なものは積極的に削除していくべきだ(そうしないとあふれかえる、さらなる乱造の呼び水になる)
- 〔存1〕あっても困らない。削除しないほうがいい。
正直ここらへんは、どこかの方針文書に則った議論というよりは、その人の基本的なポリシーに由来しているという感じで、平行線なんですよね。
私個人は、実はどちらかというと(最初からずっと)〔存1〕寄りです。
ずっと前の基準づくりの議論で、私は「青信号」(立項の基準)と「赤信号」(削除の基準)は区別するべきだ、と主張しました。それは今も変わっておりません。「Aをクリアすれば立項していいよ」と書いてあっても、じゃあ「Aをクリアしてないから削除だね」と解釈することはできないよ、というのが私の立場です。
ただ、ここは各利用者のポリシーとか、Wikipedia:削除の方針との兼ね合いもあって、「基準をクリアしていないなら特筆性がないのだから削除だ」と導く方もいらっしゃいます。各種文書を照合したり、論理的に導いたり、過去の案件に照らしても、そのように導くことは認められているようで、それを「間違いだ」ということはできません。
私は次のように考えています。
- 記事がお粗末でも、その馬が「重賞勝ち」をクリアしているなら、真面目に探せば出典はどっかにあるはずだ。なので、当面は記事が酷い状態でも、未発見/未提示の適切な出典があるという前提で、調査と加筆の方向で対処しましょう。
- ただし暫定的な措置として、統合を検討することは妨げない。リダイレクト化し、当面はそのリダイレクト先に加筆し、適切な水準に達したら分割すればよろしい。
- その競走馬の「特筆性」を判断するタイミングについては、現役引退時が一つの時期だろうと考えております。もちろん、競走馬としては鳴かず飛ばずだったものが種牡馬として成功する例はあるし、牝馬の場合はなおのことです。だからあくまでも「一つのタイミング」ではあるけれど、唯一のタイミングではない。引退時点で「重賞勝ち」をクリアしていなければ、「どこかに出典は必ずあるはずだ」という前提でコトに当たるのはやめましょう、ということになります。現役期間なんて数年どまりなんだから、その間ぐらい待ってもよかろう、ということです。
- 逆に早すぎるタイミングでの立項に対しては、ちょっと手段がありません。以前は(その世代のダービーが終わり、新馬戦が始まる)「6月末」を解禁日としてはどうか、と提案したことはあります。
- それだと、「酷い状態の記事」を乱造されてしまうのではないか、という懸念があることは承知しています。それに対する上手い回答を私は有していません。そういうことは起きるかもしれないし、既に起きているかもしれない。
- しかしまあ、酷い記事というのは誰が見ても「これはひどいね」とわかるものだし、放っておいてもやたら有害ということもあるまい。
- もしも「競走馬記事がひどいのばかりだから、ちゃんと取り締まりしろ」という合意/要請があるならば、そっちに舵を切ることは吝かではない。現段階では、そういう意見はあるものの、合意とまでは言えるかどうか。
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手短に雑に書きます。私はいまの「草案」に大きく手を入れたほうが良さそうだと思っています。
- 細かすぎる。 - 要は「重賞勝ち」と、明快にしたほうがいいのではないか。
- 基本的な考え方。 - 私個人の考えです。「基準」が示すのは、<重賞勝ちをクリアしている場合には、たとえ記事がお粗末な状態であったり、出典がゼロの状態でも、真面目に探せば適切な情報源がどこかにあるはずだ、という前提で対処しましょう。>ということ。基準をクリアしている馬の記事は、手を尽くして十分な調べ物したことを立証しない限り(WP:FAILN)、ケースEで削除依頼を通すのは無理筋だよ、ということ。そしてその逆解釈は認めない。つまり、「重賞勝ちをクリアしていないのだから適切な情報源は無いに決まってる、だから削除だよ」とみなすことはできない。
- そんなことをすると低質な記事(サブスタブ)の乱造を招くという危惧があることは承知しております。
- エアウィンザーの削除案件や、過去の議論で、「成績面」ではなく「立項時期」や「特筆性の判定時期」に定め(解禁日)を設けるというアイデアも取り沙汰されています。「低質乱造」対策の観点ではそれも一案ですが、「解禁日以前のは削除だよ」というのを合意形成して明文化するのでもない限り、有効には機能しないだろうなあとも。
- そこらへんは性善説をとるのかどうかもあり、初心者ではなく、物議を醸すことを狙ってわざと低質な記事を作る人がいるようにもみえますし、緩い側・厳しい側のどちらに倒したところで100%問題が解決するというわけでもないし、というところです。
- 直近の案件は、成績面の基準はクリアしてなくとも、「一般的な目安」の情報源があることを示して、存続意見を述べる方もいらっしゃいます。「存続」で合意形成されているとまでは言えないとしても、「削除」で合意形成もできていない情勢です。「成績面の基準」を細かく決めてもなあという感じはします。
- いずれにせよ、「低質」「乱造」を予防/抑制/削除していかなければいけない、するべきだという意見の方もいらっしゃることはわかっています。正直言うと私は「どっち側」がいいのかもうよくわからない。ただどっち側にしろ、「基準をクリアしてないから全部削除だよ」といって削除して回るのも、「なんだろうといくらでも作っていいよ」といって作って回るのも、どっちも嫌です。真面目に取り組んでくれれば
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- テンプレート:コ大雑把に言うと、問題の部分(リボーからダンシングブレーヴあたりまで)を書いたのは私ですね。そもそもこれ「出典の明記」の問題が有りますよね。正直これを加筆した頃はまだ私も「出典の明記」を今ほど強く意識していなかったものですから・・・。いちおう弁明をしますと、「出典の明記」はなされていないんですが、参考にした文献(『凱旋門賞の歴史』と『フランス競馬百年史』)で95%ぐらいは出典を付けられるはずなので、「明記してないだけ」で「検証可能性がない」わけじゃないんですけども・・・。また、(やる気が起きるかどうかは別として)現時点でヘタに出典をガチガチに固めてしまうと、かえって今回ご提案のような思い切ったバッサリがしにくくなるということもあるでしょうから、当分はあえてなにもしない、ほうがいいかな、とか。
- ひとまず出典のことは棚上げしてなんですが、「これだけ強い馬が揃って、それをまとめて負かしたすごい馬が出て、そういうことが積み重なって凱旋門賞の評価/価値がうなぎのぼりになった」ということを表すために「名馬の時代」節がある(つもり)なんですよね。一応。ご指摘のように、シーザスターズとかトレヴのような「評価の固まっていない馬」について、俯瞰的な観点を欠いたまま起きたことを書き足すというのは、ちょっと筋が違うとは思います。もちろん、シーザスターズやトレヴについても何らかの文脈の中に置くことができるなら、ありですけどねえ。
- しかしまあ、「簡素化」はしてもいいかもですね。できれば第44回凱旋門賞みたいな格好で分割して、トータルとしての情報量が減らないのが嬉しいですし、簡素化するとかえって出典をつけるのが難しくなるという面もあります。(「あれとこれとこれを勝った」と書くのは簡単だけど、「すごい馬だ」という出典をつけるのは難しいし、Wikipedia:言葉を濁さない・Wikipedia:大言壮語をしないを意識すると、細かい事実を積み重ねるような方向になってしまう。)まあともかく、削るという合意に至るなら(私は反対しません)、それもいいかもしれません。ただ書いた本人としては、いちおう必要だと思って書いたものですから、じゃあ今からどこを削ると適切なのか自分ではよくわからないです。『凱旋門賞の歴史』や『フランス競馬百年史』は、とにかく細かいことまで書いてある出典なので、思い切って全然別の包括的に書いてあるような出典を持ってきて、それを下敷きにするとかのほうが早道かもしれません。
- 「凱旋門賞の歴史」節を分割しちゃうという手もあるかもしれないですが、そうすると分割先の「歴史」にシーザスターズのことを書かれてしまう、となれば、根本的な問題解決にもならないですねえ。