Call Boy

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Barcaldine  Marco  Marcovil  Hurry On  Call Boy 
コールボーイ
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欧字表記 Call Boy
品種 サラブレッド
性別
毛色 栗毛
生誕 1924年
死没 1940年
Hurry On
Comedienne
生国 イギリス
生産 フランク・カーゾンEnglish版
馬主 フランク・カーゾン
調教師 ジョン・E・ワッツ
競走成績
生涯成績 7戦4勝
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コールボーイCall Boy)はイギリスのサラブレッドで、1927年のイギリスダービー優勝馬である。

本項では、コールボーイとともに、コールボーイが勝った第148回ダービーステークス(1927年)についても詳述する。

概要

コールボーイは、父ハリーオンの産駒としては3頭目となるイギリスダービー馬である。

ロンドンのウエスト・エンドのショービジネス界で成功したフランク・カーゾンが生産し、自らの馬主として走らせた。コールボーイは2歳の時にミドルパークステークスに勝ち、3歳の春に2000ギニーで僅差の2着になったあと、ダービーで優勝した。

その直後に馬主のカーゾンが急死してしまい、コールボーイはそのまま引退することになった。しかし種馬としてはほとんど繁殖能力がないことがわかり、去勢された。

血統

母馬

母のコメディエンヌ(Comedienne)は、バチェラーズダブル(Bachelor's Double)が種牡馬になって最初の世代の産駒で、ヘンリー・グリーア(en:Henry Greer (politician))がアイルランドで生産した馬である[1][注 1]

コメディエンヌはフランク・カーゾンが130ギニーで購入し、2歳のときに下級戦で4勝を挙げた。繁殖牝馬になったコメディエンヌの初仔は当歳時に死んでしまい、2番仔コメディスター(Comedy Star)は未勝利馬である[1][注 2]。コメディエンヌの3番仔コメディキング(Comedy King)はコールボーイの1歳年上で、3歳時(1926年7月)にエクリプスステークス2着、同年9月のジョッキークラブステークスでは優勝馬フォックスロー(Foxlaw)からアタマ・半馬身差の3着になっている[2][1]

父馬

詳細はハリーオンおよびハリーオン系を参照。

父馬ハリーオンは第1次世界大戦中(1914-1918)のイギリスで活躍した競走馬で、戦時中にセントレジャーステークスの代替競走として行われたセプテンバーステークスなど6戦無敗の成績を残した。種牡馬になるとすぐに、1922年にキャプテンカトルがダービーを勝ち、スタミナに富む種牡馬とみなされるようになった。

母のコメディエンヌにハリーオンがあてがわれた1923年の時点で、ハリーオンの産駒で主要な活躍をしたのはキャプテンカトルとタウンガードがいた。タウンガードは1922年の2歳戦でジムクラックステークスなどの重賞を勝つ活躍をしていた。コールボーイが誕生した1924年の春には、ハリーオンの産駒プラック(Pluck)が1000ギニーに優勝している。

競走馬時代

デビューまで

コールボーイを生産・所有したフランク・カーゾン(en:Frank Curzon)はイギリスの俳優・脚本家・プロデューサーである。

カーゾンはやがてプリムローズコテージ牧場(Primrose Cottage Stud)を開いて競走馬の生産を行うようになり、活躍馬を出すようになった。そして彼のサラブレッド生産の集大成となったのがコールボーイである[1]

1922年からカーゾンの馬を預かっているのがジョン・ワッツ(John Evelyn Watts)調教師[注 3]である。ワッツ調教師はもともと騎手をしていて、第一次世界大戦前にはドイツ国立牧場で働いていたこともある。ワッツ師は大戦中、サフォーク義勇軍(the Suffolk Yeomanry)に4年間従軍し、戦後ニューマーケットにランズダウンハウス厩舎(Lansdowne House)を開設した。ワッツ師はのちにマルセル・ブサックの馬を預かるようになり、凱旋門賞を連覇したコリーダを手がけることになる[1]

コールボーイが1926年の秋にデビューする前、1925年には、ハリーオン産駒のコロナックが2歳チャンピオンになった。さらに、年が明けて1926の春にコロナックはダービーを勝った。その直後の6月には、コールボーイの半兄コメディキングがエクリプスステークスで2着になっている[1][2]

2歳時(1926年)

コールボーイはハリーオン系らしい、大柄の栗毛馬だった。コールボーイのデビュー戦は7月のジュライステークスで、ザサトラップ(The Satrap)とダービー卿シックルen:Sickle)に次ぐ3着になった。ドンカスター競馬場シャンペンステークスではシックルを捉えることはできたが、デイモン(Damon)に敗れて2着になった[1][4][5]

10月になってニューマーケット競馬場でリントンステークス(Linton Stakes、5ハロン=約1207メートル)で初勝利をあげると、一ヶ月後のミドルパークステークスでシックルを頭差負かして優勝した[1]

この世代では、ジュライステークスリッチモンドステークスを勝ったザサトラップが最も高い評価を得た。この年の重要な2歳戦では、ニューステークスとシャンペンステークスをデイモンが勝ち、デューハーストプレートをマネーメーカー(Money Maker)が勝っていた。コールボーイが勝ったミドルパークステークスもイギリスの主要な2歳戦だが、コールボーイにとってはシャンペンステークスでデイモンに敗れたのが響き、世代のフリーハンデでは5番手の評価に留まった[1][4][5]

馬主のカーゾンのもとへは、翌年のクラシック候補となったコールボーイを譲ってくれという申し入れが相次いだが、カーゾンはこれを全てはねつけた。彼にとっては、こうした数々のオファーは、彼がまるで有望な2歳馬の価値を正しく理解していないと看做されているのだと侮どられていると感じるほどだった[1]

3歳時(1927年)

コールボーイは3歳になっても春のクラシック前哨戦に全く出なかった。2歳チャンピオンのザサトラップはリタイヤしてしまったし、デイモンやマネーメーカーといった2歳時の有力馬も信頼性に欠いていた。主要な前哨戦は次々と勝ち馬が変わり、3歳クラシック戦は混戦模様となった[6][7][8][5]

フランク・カーゾンは世代5番手の低評価に憤り、コールボーイが3歳になってからの調教をすべて一般公開した。公開調教で、コールボーイは半兄のコメディキングと併せ馬を行い、これに先着してみせた。コメディキングは前年のエクリプスステークスでダービー馬コロナックと争って2着に入った馬である。この調教をみた人々によって、この年1度も出走していないにも関わらず、コールボーイは2000ギニーでの人気を高めた[1]

2000ギニー

2000ギニーは本命不在の混戦ムードで、どの馬でも勝てそうだと考えた馬主が多くなった結果、出走馬の数は史上2番めに多い23頭になった。コールボーイは本命とはいえ3.5倍どまりだった。[6][7][8]

コールボーイは残り400メートルほどからスパートし、コールボーイ、2番人気のシックル(Sickle)、人気薄のアダムズアップル(Adam's Apple)の3頭の争いになった。ゴール寸前でシックルがやや遅れ、コールボーイとアダムズアップルが並んだままゴールした。観衆の多くは同着とみたが、ハナ差[注 4]でアダムズアップルの勝利と判定された。アダムズアップルの馬券は21倍の番狂わせになった。[8][7][9]

第148回ダービーステークス

この年はダービーも混戦であることは疑いようもなく、「長いダービーの歴史の中で、最もどの馬にも優勝のチャンスがある一戦」と報じられている[10]

コールボーイは2000ギニーのあと、ニューマーケット競馬場の10ハロン(約2011メートル)のレースを4馬身差で制してダービーへ駒を進めた。ダービーが行われるエプソム競馬場は、ニューマーケット競馬場よりも起伏が激しく、距離も半マイル長くなる。もともと距離が伸びれば伸びるほど強くなるハリーオン産駒だったし、2000ギニーでも僅差の2着だったことが評価を受け、本命になった。とはいえ5倍どまりで、例年に比べると強い支持を集めたわけではなかった。[11][4][12][13][14]

差のない2番人気は5.5倍のホットナイト(Hot Night)だった。ホットナイトは上海の不動産王ヴィクター・サッスーン(Victor Sassoon)の所有馬である。3番人気には2000ギニー優勝馬のアダムズアップル(7倍)、4番人気は2000ギニー3着のシックル(8倍)だった。直前のチェスターヴェースを勝って滑り込んできたローンナイト(Lone Knight)が12.1倍で5番人気だった。ダービーの1週間前に大西洋単独無着陸飛行を成功させたチャールズ・リンドバーグがダービーのゲストとして競馬場へやってきたが、そのために競馬場には大観衆がおしかけ、50万人が集まったと伝えられている。[12][13]

コールボーイは終始積極策で先頭を走り、2分34秒2/5のコースレコードで勝った[注 5]。ホットナイトが2着に入り、3着には人気薄のシアンモア(Shian Mor)が入った。[12][15]

ダービーでは、優勝馬の馬主がスタンドからゴールまで降りてゆき、愛馬の手綱をとってセレモニーをするというのが恒例だったが、この年はそれが難しかった。馬主のカーゾンは、直前に妻と死別したばかりなうえ、本人も心臓病で歩くこともままならなかった。最後は貴賓席へ登って国王から祝福を受けるのだが、これに大変な時間を要した。[12][15][13]

ダービーのあと

ダービー優勝の翌日、カーゾンはロンドンで心臓発作を起こし、2週間後に死んだ。[16][15]

当時のイギリスの規定では、馬主が死去するとクラシック登録が失効し、セントレジャーステークスには出走できなくなった。コールボーイには世界中から様々なオファーがあったが、最終的にはカーゾンの従兄弟が6万ポンドを出して購入し、種牡馬にすることになった。[17][16]

しかし、まもなくコールボーイには受精能力がほとんどないことが判明し、去勢された。ただし、完全に受精能力が無かったわけではなく、種付の後にアメリカへ連れて行かれた牝馬が牡馬を出産しており、その子孫がアメリカで数代にわたって細々と残った。[18]

1961年のイギリス1000ギニー及びイギリスオークスの勝ち馬スイートソレラが、コールボーイが牝系に入っている活躍馬である。

血統表

コールボーイの血統

Hurry On
1903 栗毛 イギリス
Marcovil Marco Barcaldine
Novitiate
Lady Villkins Hagioscope
Dinah
Toute Suite Sainfoin Springfield
Sanda
Star Thurio
Meteor

Comedienne
1913 黒鹿毛または青鹿毛[注 6] イギリス
Bachelors Double Tredennis Kendal
St Marguerite
Lady Bawn Le Noir
Milady
Altoviscor Donovan Galopin
Mowerina
Navareta Kilwarlin
Pampeluna

脚注

参考文献

  • 『CLASSIC PEDIGREES 1776-2005』Michael Church編、Raceform刊、2005
  • 『ダービーの歴史』アラステア・バーネット、ティム・ネリガン著、千葉隆章・訳、(財)競馬国際交流協会刊、1998
  • 『サラブレッドの世界』サー・チャールズ・レスター著、佐藤正人訳、サラブレッド血統センター刊、1971
  • 『海外競馬完全読本』海外競馬編集部・編、東邦出版・刊、2006

注釈

  1. アイルランドがイギリスから独立して「アイルランド共和国」になるのは1949年であり、コメディエンヌが生産された1940年当時はアイルランドも「イギリス」の一部である。そのためコメディエンヌの生産国はイギリス(GB)となる。
  2. 後年、コメディスターの子孫には1000ギニー優勝馬のダンシングタイム(Dancing Time)などが出ている。
  3. ジョン・E・ワッツ騎手/調教師は、19世紀の名騎手ジョン“ジャック”ワッツ(en:John Watts (jockey))の息子。ジョン・ジャック・ワッツの孫のジョン・フレデリック・ワッツも騎手。三代とも「ジョン・ワッツ」と書かれることが多いので注意が必要。[3]
  4. 正確には「短頭差(a short head)」。イギリスには「ハナ差(nose)」という着差はないが、日本には「短頭差」というのがなく、その代わりになるのがハナ差なので、ここではハナ差とした。
  5. 「ダービーレコード」は、戦時中に平坦なニューマーケット競馬場で行われた時に作られている。
  6. 馬の毛色の分類は文化圏ごとに異なっており、黒鹿毛・青鹿毛の分類は日本とアメリカでは違う。アメリカの登録では本馬は「Brown(青鹿毛)」[19]となっているが、日本では黒鹿毛[20]とされている。

出典

  1. 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 サラブレッドヘリテイジ ハリーオン2013年11月28日閲覧。
  2. 2.0 2.1 Comedy King2014年8月2日閲覧。
  3. HorseRacingHistoryOnline Watts, John (1861 - 1902)2014年6月12日閲覧。
  4. 4.0 4.1 4.2 シドニーモーニングヘラルド紙 1927年5月13日付 Racing in England2014年8月1日閲覧。
  5. 5.0 5.1 5.2 サラブレッドヘリテイジ テトラテマ2013年12月10日閲覧。閲覧。
  6. 6.0 6.1 モントリオールガゼット紙 1927年4月26日付 No favorites for English Classics2014年8月1日閲覧。
  7. 7.0 7.1 7.2 Sydney Mail紙 1927年5月4日付 First English Classic for 19272014年7月30日閲覧。
  8. 8.0 8.1 8.2 モントリオールガゼット紙 1927年4月28日付 Call Boy likely Derby favorite2014年8月2日閲覧。
  9. HorseRacingHistoryOnline Adam's Apple2014年7月20日閲覧。
  10. オタワシチズン紙 1927年5月31日付 Favorite races to victory plenty to spare2014年6月20日閲覧。
  11. モントリオールガゼット紙 1927年4月30日付 Cresta Run at 10-1 won 1000Guineas2014年8月2日閲覧。
  12. 12.0 12.1 12.2 12.3 シカゴトリビューン紙 1927年6月2日付 50万人観戦の英国ダービー、コールボーイが優勝2015年3月25日閲覧。
  13. 13.0 13.1 13.2 SpokesmanReview紙 1927年6月1日付 ダービーは本命が優勝 リンドバーグがゲスト2015年3月25日閲覧。
  14. グラスゴー・ヘラルド紙 1927年5月3日付 Call Boy Favorite for the Derby2014年8月1日閲覧。※コールボーイには直接関係がないが、この記事には当時現役の古馬だったトウルヌソルのことも出てくる。
  15. 15.0 15.1 15.2 イブニングポスト紙 1927年6月7日付 ダービー優勝のコールボーイとグランドスタンドのカーゾン氏2015年3月25日閲覧。
  16. 16.0 16.1 イブニングポスト紙 1927年12月7日付 英国競馬情報2015年3月25日閲覧。
  17. NYタイムズ紙 1927年8月7日付 ブライトン氏がコールボーイを30万ドルで購入し、アメリカへの流出を阻止2015年3月25日閲覧。
  18. 『サラブレッドの世界』p339-340
  19. EQUINELINE Call Boy2015年4月30日閲覧。
  20. JBIS Call Boy(GB) 5代血統表2015年4月30日閲覧。

外部リンク

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