Kiwi
キーウィ | |
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欧字表記 | Kiwi |
品種 | サラブレッド |
性別 | せん馬 |
毛色 | 栗毛 |
生誕 | 1977年テンプレート:要検証 |
死没 | 1995年 |
父 | Blarney Kiss |
母 | Malrayvis |
母の父 | Messmate |
生国 | テンプレート:NZL |
生産 | Brian Fischer |
馬主 | Snow Lupton |
調教師 | Snow Lupton |
競走成績 | |
生涯成績 | 60戦13勝 |
獲得賞金 | NZ$549,839 |
キーウィ (英語: Kiwi、1977年テンプレート:要検証)とはニュージーランドで生産・調教された競走馬である。1983年にニュージーランドのウェリントンカップとオーストラリアのメルボルンカップに優勝した。メルボルンカップでの最後方からの追い込み勝ちでよく知られ、両カップ戦を制覇した史上唯一の馬として知られている[1]。キーウィの現役生活は1980年から1987年まで続き、1995年にテンプレート:要検証没した。
キーウィは史上唯一ウェリントンカップとメルボルンカップを制覇した馬として知られている[1]。キーウィの現役生活は1980年から1987年の7年もの間続き、1995年に没した。
デビューまで
キーウィの生産者は、ニュージーランド・パローレ(Parore)のブライアン・フィッシャー(Brian Fischer)である[2]。
その後、ウェイヴァリーで牧羊業を営むスノー・ラプトン(Snow Lupton)と妻アン(Ann)が1,000ニュージーランド・ドルで購入した。本馬の毛色が栗毛なのがアンの好みだったという。[1]テンプレート:出典無効
夫妻は以前にも父Blarney Kiss産駒の牡馬を所有したことがあった。キーウィは競走馬としての見込みがありそうで、ラプトンの見立てでは長距離戦に向きそうだと思えた。テンプレート:要出典
競走馬時代
キーウィは1983年1月のウェリントンカップを3分20秒29で後ろから追い込み、僅差で制した[3]。
メルボルンカップでは、同年の早い時期にウェリントンカップに優勝しているにもかかわらず、多くのブックメーカーはキーウィを穴馬扱いし、単勝の倍率は10対1(11.0倍)だった[4]。
これまでのレースと同様、鞍上のジム・キャシディーは24頭の馬群の後ろの方からレースを進めた。フレミントン競馬場の最終コーナーの途中、残り500メートルの地点でキーウィは後ろから数えて2番手に位置していた。最後尾のAmarantは怪我をして失速していった。
最後の直線が近づくと、キーウィは進出を開始した。ゴールでは1馬身差で勝利した。実況者の多くは、ゴール直前になって突如キーウィの名を叫ぶことになった。たとえば「そして外から青い勝負服、キーウィだ」("and here comes Kiwi out of the blue")といった具合だった。[5]
1983年のキーウィの勝利は、メルボルンカップ史上、「最もエキサイティングなもののひとつであるのは、だれもが認めるところだった」(『オーストラリア競馬史』[6])といい、最も記憶に残るものの一つ[7]で、典型的なステイヤーによる勝利であった。キーウィはニュージーランドのお茶の間の人気者になり、下馬評の低いものによる優勝の代表的な事例となった。[8]
馬主のラプトンは、キーウィの調教メニューのひとつとして、羊の群れを寄せ集めるのに使っていたことを白状した。[8][9]
キーウィは翌1984年のメルボルンカップにも登録したのだが、獣医の直前チェックで取消となり物議を醸した。ラプトンはキーウィの状態に問題はなく、出走できていたのなら勝てたかもしれないとしている[10]。この一件は、ニュージーランドとオーストラリアのライバル関係に起因する不公正なものだったとして、批判を招いた。
キーウィは1984年の第4回ジャパンカップにニュージーランド代表として出走し、6着になった[11]。
キーウィは1985年のメルボルンカップには出走したものの13着に終わった。1986年のメルボルンカップでは、1983年のような「後方差し切り」の優勝を決めるかのように見えたが、途中で脚を怪我してゴール前では騎手が馬を抑え、4着に終わった。
引退
キーウィは、ウェリントンカップとメルボルンカップを連続して勝った唯一の馬である[1]。メルボルンカップはオーストラリアとニュージーランドで価値の高い長距離戦とみなされており、この歴史的快挙は高く評価されている。
1987年にキーウィは引退し、生まれ育ったラプトン夫妻の牧場で余生を過ごし、1995年に死亡。そのまま同地で埋葬された[12]。
墓石には"Kiwi, 1983 Melbourne Cup"とのみ記されている[10]。
ウェイヴァリー競馬場にはキーウィを称える記念碑が設置されている。
Honorific eponym
2012年に、オーストラリアのCFCL鉄道は、本馬の名をとってC44aci型機関車(en:UGL Rail C44aci)CF4406号機に「キーウィ」と命名した。[13]
2022年には、キーウィの像が製作された。実物大のキーウィにジム・キャシディー騎手がまたがり全力疾走している姿の粘土像が、ウェイヴァリー競馬場に寄贈された。製作者はニュープリマスのアーティスト、Fridtjof Hansonである。これを銅像にするため、ウェイヴァリー町の芸術助成金から15万5000ニュージーランドドルが支弁され、ロワー・ハットの金属加工所でブロンズ像化される。完成は2023年前半を目指している[14]。
血統表
キーウィの血統 | |||
父 Blarney Kiss (USA) 1965 |
Irish Lancer (USA) 1957 |
Royal Charger | Nearco |
Sun Princess | |||
Tige O'Myheart | Bull Lea | ||
Unerring | |||
Log House (USA) 1956 |
Cosmic Bomb | Pharamond | |
Banish Fear | |||
Ariel Beauty | Ariel | ||
Big Beauty | |||
母 Malrayvis (NZ) 1963 |
Messmate (GB) 1954 |
Blue Peter | Fairway |
Fancy Free | |||
Run Honey | Hyperion | ||
Fancy Free | |||
Grande Vitesse (NZ) 1952 |
Beau Repaire | Beau Pere | |
Modiste | |||
Satisfied | Siegfried | ||
Satisfy |
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ ネヴィル・ペントン/著、草野純/訳、『オーストラリア競馬史』、日本中央競馬会・国際室、1993年。p.495
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 8.0 8.1 Carolyn Jean Mincham(マッセー大学Doctor of Philosophy論文)、{{PDFlink|A Social and Cultural History of the New Zealand Horse、p.275(PDF表示ソフト上は287ページ)
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 10.0 10.1 テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web