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*『競馬四季報』、第22巻第3号(通巻87号)1993年秋季号(関東版)、[[サラブレッド血統センター]]、1993年。
 
*『競馬四季報』、第22巻第3号(通巻87号)1993年秋季号(関東版)、[[サラブレッド血統センター]]、1993年。
 
* 青木義明/著、栗山求/監修、『世界の名馬5代血統表 Whalebone 1807 ~ Helissio 1993』、競馬通信社、1999年。ISBN 4-7952-2341-6
 
* 青木義明/著、栗山求/監修、『世界の名馬5代血統表 Whalebone 1807 ~ Helissio 1993』、競馬通信社、1999年。ISBN 4-7952-2341-6
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*Michael Church、“CLASSIC PEDIGREES 1776-2005”、Raceform、2005。ISBN 1905153031
  
 
==関連図書==
 
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2023年7月13日 (木) 20:09時点における版

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ティーノソ
現役期間 1982年~1984年
欧字表記 Teenoso
品種 サラブレッド
性別
毛色 鹿毛
→黒鹿毛ないし青鹿毛[1][注 1]
生誕 1980年4月7日
死没 1999年10月4日
Youth
Furioso
母の父 Ballymoss
生国 アメリカ合衆国
生産 Eric Moller & White Lodge Stud
馬主 Mollers Racing
調教師 Harry Wragg
Geoff Wragg
競走成績
生涯成績 13戦6勝
獲得賞金 £ 452,001
タイムフォーム 132(1983年)
138(1984年)
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ティーノソ[2](Teenoso、1980年4月7日生まれ、1999年10月4日没)は、アメリカ産・イギリス調教のサラブレッド競走馬である。2歳時には目立たたなかったが、3歳(1983年)の春にダービートライアルステークス(G3)を勝って頭角を現すと、英国ダービーに優勝、鞍上のレスター・ピゴット騎手に英国クラシック競走9勝目をもたらした。その後ティーノソはこの年2戦して勝てなかったが、古馬になってオーモンドステークス(英G3)、サンクルー大賞(仏G1)、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス(英G1)と3連勝し、引退した。種牡馬としては期待外れに終わった。

出自

生産者・馬主

ティーノソは1980年4月7日に誕生した[3][1][4]アメリカ合衆国ケンタッキー州産で[1][4]、生産者はMoller & White Lodge Stud, E. B. [1][4]。馬主はラルフ“バッヂー”モラー(Ralph 'Budgie' Moller)とエリック・モラー(Eric Moller)の兄弟[5]



血統背景

ティーノソは、父馬ユース(1976年のフランスダービーワシントンDC国際招待の優勝馬)の最良の産駒である。

母馬フュリオソ[2](Furioso)は1974年の英オークスの2着馬。母の産駒トプシー(Topsy)は1979年にサンチャリオットステークスアスタルテ賞(現在のロートシルト賞)に勝ち、英1000ギニーで2着になっている。

母フュリオソも、ティーノソも、モラー兄弟が繋養していた繁殖牝馬ホラマ(Horama)を祖とする多くの活躍馬のうちの一頭であある。

この一族には、愛1000ギニーケンブリッジシャーHの勝馬ラクエル(Lacquer)、同じく愛1000ギニー優勝馬のファヴォレッタ(Favoletta)、コロネーションステークス勝ちのソヴリン(Sovereign)、ケンブリッジシャーH勝ちのヴィオレッタ(Violetta)がいる[6]

毛色

ティーノソは、濃い目の鹿毛の牡馬で、額と左後脚には小さな白斑(肢部参照)を持つ。

毛色は、現役競走時代は「bay」(鹿毛)と登録されていた[6]。種牡馬になるときに「dark bay or brown」(黒鹿毛ないし青鹿毛)に修正された[4]

競走成績

ティーノソは、サフォーク州ニューマーケットのアビントンプレース厩舎(Abington Place stables)のハリー・ラッグ(Harry Wragg)調教師のもとへ送りこまれた[7]

元名騎手のハリー・ラッグ調教師[注 2]と生産者・馬主のモラー兄弟は長年のつきあいがあった[5]。ハリー・ラッグ調教師は80歳を迎え、1982年限りで調教師業から勇退し、息子のジェフ・ラッグ(Geoff Wragg)に厩舎を継がせることにしていた[5]。したがってティーノソは3歳からジェフ・ラッグ調教師によって管理されることとなる[5]

1982年 2歳時

ティーノソは1982年に2歳になったものの、大した活躍はできなかった。8月、ニューマーケット競馬場での6ハロン(約1207メートル)のデビュー戦では着外に終わり、一ヶ月後のドンカスター競馬場での7ハロン戦(約1408メートル)でも着外だった。

ティーノソは2歳時の最終戦では、少し良くなったところをみせ、馬場が渋ったニューマーケット競馬場で4着に入った[9]

結局、このシーズンは収得賞金262ポンドで終えた。シーズン後、調教師のハリー・ラッグは引退し、息子のジェフ・ラッグ(Geoff Wragg)が後を継いだ。[7]

1983年 3歳時

3歳時の緒戦はヘイドック競馬場での未勝利戦(maiden)で、10ハロン(約2011メートル)で2着に入った。

前走から11日後、ニューマーケット競馬場の1マイル半(約2414メートル)・不良馬場の未勝利戦で、ティーノソは初めて秘められたた能力の片鱗をみせた。

ティーノソはゴール前3ハロン(約603メートル)で先頭に立つと、後続を突き放して8馬身差で楽勝してみせた。

この1983年の春は、例年よりも冷えて雨が多い年で、多くの競走馬が調整にもたついたり、例年よりも水を含んで重くなった馬場に苦しんでいた。

この天候のせいで、ティーノソの次走と目されていたチェスターヴェースなどのダービーの前哨戦のいくつかは中止に追い込まれ、ダイイシス・ダンビース(Dunbeath)・ゴライタス(Gorytus)など前年2歳シーズンの上位馬の中には調子を崩すものもでた。[9]

ティーノソは重馬場に適しているとみなされるようになり、5月のリングフィールド競馬場ダービートライアルステークスでは3番人気となった。ティーノソはゴール前5ハロン(約1005メートル)で先頭に出ると、そのまま2番手のShearwalkに3馬身差をつけて勝った。[6]

英国ダービー8勝を誇るレスター・ピゴット騎手が、ダービーでの騎乗馬にティーノソを選ぶと馬券の人気が集まり、9対2(5.5倍)で21頭中の本命馬になった。

この年のエプソム競馬場は長年のなかで最も馬場が重たくなった[10]。ティーノソは、発走直後から先頭集団につけた。

最後の直線に入るとまもなく、ピゴット騎手に促されてティーノソが先頭に立つと、あとは脅かされることはまったくないまま、3馬身差をつけて優勝した。2着にはアイルランド調教馬のカーリングフォードカッスル(Carlingford Castle)が入った。勝ちタイムは2分49秒7で、20世紀の英国ダービーでもっとも時計のかかったレースとなった。[11]


ジェフ・ラッグ調教師にとっては、開業1年目のダービー優勝となった[5]


3週間半の後、アイルランドカラ競馬場愛ダービーでは、英国ダービー馬ティーノソと仏国ダービーカーリアンの対決となった。道悪だったエプソム競馬場とは対照的に、アイルランドの馬場は堅く、ティーノソには不向きだったようで、快勝したシャリーフダンサー、2着カーリアンに遅れて3着に終わった。

このあとティーノソは9月のドンカスター競馬場でのセントレジャーへ向けて調整に入った。

8月、前哨戦のグレートヴォルティジュールステークスヨーク競馬場)では期待を裏切り、シーモアヒックス(Seymour Hicks)とダザリ(Dazari)に敗れ3着におわった。

レースを終えて戻ってきたティーノソは、左後脚に疲労骨折と思しき故障が見つかった。

この故障でティーノソの競走生命は絶たれたかに思われたが、しばらくすると、怪我は当初の見立てほど深刻ではないことがわかり、秋終盤には調教を再開することが可能となった。[6]

1984年 4歳時

ティーノソの4歳緒戦は、4月のニューベリー競馬場のG3戦ジョンポーターステークスになった。

ティーノソは本命馬だったが、8ヶ月ぶりの出走で、ゲイレマー(Gay Lemur)とダザリ(Dazari)に遅れて3着に終わった。ダービー勝ちのティーノソは、先着した2頭よりも重い斤量を背負わされていた。

5月には、ペースメーカーの僚馬ミルプランテーション(Mill Plantation)とともに、チェスター競馬場のG3戦オーモンドステークスen:Ormonde Stakes)に出走した。

ティーノソはゴール前3ハロン(約603メートル)で先頭になり、ケアプール(Khairpour)に1馬身半差をつけて楽勝した[12]

英国ダービー馬が古馬になって勝鞍をあげるのは、1975年の勝馬スノーナイト(en:Snow Knight)以来のことで、ヨーロッパ全体でみると1973年にコロネーションカップに勝ったロベルト以来となった。

訳注 スノーナイトは1974年の英国ダービー馬。古馬になってアメリカに渡り、4歳時(1975年)にマンノウォーS米G1などに勝った。ヨーロッパでは出走せず。ヨーロッパで実施される古馬戦に限るとロベルトまで遡る。
以後の英国ダービー勝馬は、1975年グランディ・1976年エンペリー・1977年ザミンストレル・1978年シャーリーハイツ・1979年トロイは3歳で引退、1980年ヘンビットは古馬になって2戦0勝、1981年シャーガーはセントレジャーを最後に行方不明、1982年ゴールデンフリースはダービー優勝後引退。


ティーノソの次戦は、1983年の愛ダービー以来のG1競走となる、フランスのサンクルー大賞になった。

ピゴット騎手はティーノソを4番手に位置させ、直線を待った。

ティーノソは直線で先頭に立つと、いったんは他馬を2馬身引き離した。ゴール前で人気薄のフライミー(Fly Me)がクビ差まで迫った。


レースの直前、ティーノソは頭を後ろにむけて、ピゴット騎手の顔にぶつけ、そのためピゴット騎手は右目を負傷し、ひどく出血しながらの騎乗だった。[12]

この勝利は、良馬場での初めての勝利となり、ティーノソは柔らかい馬場でないと本領を発揮できないという意見を払拭するものとなった。


7月末、英国の馬齢重量戦の最高峰、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスに出走、ティーノソは13頭中13対2(7.5倍)の人気となった。アスコット競馬場は、前走同様、堅い馬場となった。


前年からの連覇を狙うタイムチャーター(en:Time Charter)が一番人気で、ダルシャーン、サンプリンセス(en:Sun Princess (horse))、*トロメオen:Tolomeo (horse))、サドラーズウェルズ(Sadler's Wells)などが揃った。



ピゴット騎手に促されて、ティーノソはスタートから先頭を奪うと、サンプリンセスのペースメーカーであるヒズオナー(His Honour)と並んで進んでいった。


ティーノソは半馬身のリードを保ったまま最終コーナーをまわって、直線に向くと、後続に差をつけはじめた。

ティーノソを追ってきたのはサドラーズウェルズだけで、最後の1ハロンで伸びてきて1馬身差まで迫った。しかしティーノソは再び脚を使うと2馬身半まで差をつけて勝った。[12] 勝ちタイムは2分27秒95で、レース史上2番めの好タイムとなった。[9]


ティーノソはこのあと、10月のロンシャン競馬場凱旋門賞に狙いを定めた。


ティーノソは事前の早売り馬券では9対4(3.25倍)の1番人気だったが、凱旋門賞の3日前になって、右前脚に軽度の故障がみつかった。

獣医の助言に従って凱旋門賞を取り消し[12]、現役を退いて種牡馬となった。

評価

タイムフォーム誌によるレーティングでは3歳時(1983年)が132[6]、4歳時(1984年)が135である。4歳時はタイムフォーム誌による中距離チャンピオンに選ばれた。

1984年のインターナショナル・クラシフィケーションではティーノソは欧州古牡馬部門の首位に選出、全年齢ではエルグランセニョールに次ぐ2位にランキングされた。[12]

Racegoers' Clubが実施した投票による英国年度代表馬選出では、ティーノソは2歳馬プロヴィデオ(en:Provideo)に17票対6票で敗れ、2位だった。[13]

タイムフォームのレーティングに基づいた、 ジョン・ランダル(John Randall)とトニー・モリス(Tony Morris)の共著“A Century of Champions”では、ティーノソは英国ダービー馬のなかで「優」(superior)にランキングされている。[11]

種牡馬として

ティーノソは、ハイクレアスタッド(Highclere Stud)で種牡馬入りしたのだが、配合相手に恵まれず、種牡馬として成功したとは考えられていない。[14]

代表産駒は、おそらく、G3競走を含む8勝をあげたヤングバスター(Young Buster)であろう[15]。このほか、平地競走で活躍したものとしては、ハンザ賞勝ちのカールトン(Carlton)、フォルクス銀行ライフアイゼン銀行杯(Team Trophy der Volksbanken und Raiffeisenbanken)勝ちのスターレット(Starlet)がいる。


ティーノソは、のちにシュロップシャーシュロップ州のシェイドオークスタッド(Shade Oak Stud)、さらにドーセット州シェアボーンのピッツファームスタッド(Pitts Farm Stud)に移った。

種牡馬としてのキャリアの晩年は、種付け料が1000ポンドで、もっぱらナショナルハント競馬(障害競走参照)用の種馬として供用された。


スティープルチェイス競走(障害競走参照)での最良の産駒はヤングスパルタカス(Young Spartacus)で、Mildmay of Fleteハンデチェイス(en:Mildmay of Flete Handicap Chase)やレーシングポストチェイス([[:en]Racing Post Chase|Racing Post Chase]])に勝った。このほかホラス(Horus)はボーダフォン金杯(Vodafone Gold Cup])に勝った。[16]

※注 HorusのVodafone Gold Cup Handicap Chase(LR)は、1着同着だった。


1999年秋、ティーノソの血栓症が悪化し、10月4日にピッツファームスタッドで安楽死の処置が執られた。[14]

主な産駒

馬名 生年 生産国 主な戦績 出典
カールトン(Carlton) 1989 GER ハンザ賞独G3、③独ダービー独G1 [2][17]


血統

Teenoso[4]の血統 (血統表の出典)[19] [18][3]
        *Armageddon *Alsab
  *Fighting Lady
  Battle Joined *Ethel Walker *Revoked
Ack Ack   *Ethel Terry
    *Turn-To *Royal Charger
  1966 USA   *Source Sucree
  Fast Turn *Cherokee Rose *Princequillo
Youth       *The Squaw
      *Royal Gem *Dhoti
    *French Gem
1973 USA   Dark Star *Isolde *Bull Dog
Gazala   *Fiji
      *L'Amiral *Admiral Drake
  1964 FRA   *Hurrylor
  Belle Angevine *Bella *Canot
      *Bayan Kara
        *Nearco *Pharos
  *Nogara
  Mossborough *All Moonshine *Bobsleigh
Ballymoss   *Selene
    *Singapore *Gainsborough
  1954 GB   *Tetrabbazia
  Indian Call *Flittemere *Buchan
Furioso       *Keysoe
      *Chanteur *Chateau Bouscaut
    *La Diva
1971 GB   Pinza *Pasqua *Donatello
Violetta   *Pasca
      *Nasrullah *Nearco
  1958 ITY   *Mumtaz Begum
  Urshalim *Horama *Panorama
      *Lady of Aran
父系 ヒムヤー系< タッチストン系<< ダーレーアラビアン 父系の出典が未提示です
母系 ファミリーナンバー3-c (出典)[20]
5代内の近親交配 Nearco 4×5 (出典)[22] [21]
上記血統表中、4桁の数字は生年を表す。国名は生産国を表す。「*」は日本へ輸入された馬を示す。太字は近親交配が行われていることを示す。

脚注

注釈

  1. 競走馬時代は「bay」、種牡馬時代は「dark bay or brown」(「dkb/br」と略記されることが多い)の登録となっている。日本国内のサラブレッドの血統登録制度では、毛色は必ず1種類を選択して登録されるのに対し、米国や英国では「A or B」のように複数の毛色で登録されることもある。ウマの毛色の判定は文化に・言語よって異なっており、1対1では対応していない。「bay」は基本的に「鹿毛」となるが、「dark bay」は日本国内では「黒鹿毛」となる場合と「青鹿毛」となる場合がある。同様に「brown」は「青鹿毛」の場合と「黒鹿毛」の場合がある。本馬はdark bay(黒鹿毛ないし青鹿毛)か、brown(青鹿毛ないし黒鹿毛)であるので、結局「黒鹿毛ないし青鹿毛」となる。なお本馬は日本国内で血統登録を受けたことはないため、英国または米国での「bay」「dark bay or brown」が正式な毛色ということになる。
  2. ハリー・ラッグ(1902-1985、Harry Wragg)は、騎手として英国ダービー3勝、オークス4勝を含む英国クラシック三冠戦を13勝し、1941年には英国平地競馬のチャンピオン騎手になったこともある、往年の名騎手であった。[8]

出典

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 EQUIBASE、Horse Profile、Teenoso (KY)、2023年6月18日閲覧。
  2. 2.0 2.1 2.2 『競馬四季報』1993年秋号(関東版)、pp.1075-1076「ミラーズドウター」
  3. 3.0 3.1 レーシング・ポストTeenoso (USA) Pedigree、2023年6月18日閲覧。
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 テンプレート:Cite web
  5. 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 デイリー・テレグラフ、2008年8月27日付、HOTSPUR (J A McGrath)、Geoff Wragg retires with just one regret - failing to land the Oaks、2023年6月3日閲覧。
  6. 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 テンプレート:Cite book
  7. 7.0 7.1 テンプレート:Cite web
  8. Tony Morris・John Randall/著、“Horse Racing: Records, Facts, Champions”、Guinness Publishing、1990。ISBN 0851129021
  9. 9.0 9.1 9.2 テンプレート:Cite web
  10. テンプレート:Cite news
  11. 11.0 11.1 テンプレート:Cite book
  12. 12.0 12.1 12.2 12.3 12.4 テンプレート:Cite book
  13. テンプレート:Cite book
  14. 14.0 14.1 テンプレート:Cite web
  15. テンプレート:Cite web
  16. テンプレート:Cite web
  17. 日本軽種馬協会JBIS-サーチ(Japan Bloodstock Information System)、Carlton(GER) 基本情報、2023年6月20日閲覧。
  18. 『世界の名馬5代血統表 Whalebone 1807 ~ Helissio 1993』、p.228「Teenoso」
  19. 日本軽種馬協会、JBIS(Japan Bloodstock Information System)、Teenoso[4]血統情報、2023年6月12日閲覧。
  20. 日本軽種馬協会、JBIS(Japan Bloodstock Information System)、Teenoso[4]血統情報、2023年6月12日閲覧。
  21. 日本軽種馬協会JBIS-サーチ(Japan Bloodstock Information System)、Teenoso(USA) 血統情報、2023年6月20日閲覧。
  22. 日本軽種馬協会、JBIS(Japan Bloodstock Information System)、Teenoso[4]血統情報、2023年6月12日閲覧。

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Geoff Wragg retires with just one regret - failing to land the Oaks
By HOTSPUR (J A McGrath)
27 August 2008 • 9:16pm
Geoff Wragg had only one regret as he announced that he is to retire at the end of the season, following a career that has spanned more than 25 years.
Though he won the Derby with Teenoso in his first year with a licence, he had always wanted to win the Oaks to complete a family nap hand of the Classics.
His father, the legendary jockey Harry Wragg, the 'Head Waiter,' had won all Classics while riding, and except for the Oaks, he did the same when training. Geoff had harboured hopes of completing the set of five for the family stable.
But since taking over from his father in 1983, Wragg, 78, has always done extremely well with his select team of horses trained from his yard on the Bury Road, Newmarket Apart from Teenoso, he also prepared Pentire to win the King George VI and Queen Elizabeth Stakes, plus a string of other top horses, including Marling, winner of the Irish 1,000 Guineas.
"It's sad, but we've had a great innings," Wragg said yesterday. "Teenoso was the best I've trained, but I got particular pleasure out of winning the Hong Kong Cup with First Island at Sha Tin. It was a very special day."
Wragg was in his early 50s when he took over the licence. Lester Piggott, a great friend, won him the Derby, which was to be the great jockey's last success in the Classic he dominated with a record nine victories.


Following the deaths of the brothers Eric and Ralph 'Budgie' Moller, who owned Teenoso, a trust was created in their family name. The money was used to buy a number of very good horses over the years, but even that faded away.




書誌情報

  • 『競馬四季報』、第22巻第3号(通巻87号)1993年秋季号(関東版)、サラブレッド血統センター、1993年。
  • 青木義明/著、栗山求/監修、『世界の名馬5代血統表 Whalebone 1807 ~ Helissio 1993』、競馬通信社、1999年。ISBN 4-7952-2341-6
  • Michael Church、“CLASSIC PEDIGREES 1776-2005”、Raceform、2005。ISBN 1905153031

関連図書

外部リンク

関連項目

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