「大ジェームズ・ダーシー」の版間の差分
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− | ところが、大ダーシーが実際に[[タットベリー王室牧場]] | + | ところが、大ダーシーが実際に[[タットベリー王室牧場]]に行ってみると、そこは想像以上に破壊と略奪を受けていた。往年のタットベリーには、ヨーロッパ中と東方から集められた140頭もの駿馬たちが繋養されていたが、それらの馬はみな奪い去られて散逸しており、かつての王や姫たちが暮らした王城そのものも破壊されていた。 |
+ | 大ダーシーはチャールズ2世のために次のような手紙をしたためた。 | ||
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+ | 「国王陛下、タットベリーには、陛下の牧場と呼べるものは残されてはおりません。タットベリーはその用に供するにはもはや不可能でございます。もしよろしければ、私の領地によい種馬を2頭持っておりますので、毎年決まった額をお支払いいただければ、優駿を毎年決まった頭数、競走馬として提供いたします。」 | ||
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+ | 1661年6月の公文書にダーシー家とチャールズ2世の馬の取引が記録されていることから、この大ダーシーの申し出は受諾されたものと考えられている。のちの小ダーシーの訴えによると、チャールズ2世は毎年800ポンドをダーシー家に支払い、ダーシー家は毎年12頭の名馬を引き渡すという約定だったという。こうして、ダーシー家のセトベリーの牧場は事実上の王室牧場(王室御用達競走馬牧場)となり、「[[ロイヤルメア]]」と呼ばれる牝馬を出すことになった。 | ||
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2022年1月15日 (土) 15:20時点における版
大ダーシーことジェームズ・ダーシー(James D'Arcy the Older、1617 - 1673)は、ヨーク州北部に本拠をおいた馬産家である。チャールズ2世の王室牧場長として知られる。
息子も同名のジェームズ・ダーシー(James D'arcy the Younger、1650-1731)というので、両者を「大ダーシー」「小ダーシー」といって区別する。大ダーシー、小ダーシーとも競馬史の重要人物だ。これに加えて、大ダーシーの兄コンヤーズ・ダーシー(初代ホルダネス公爵)も競馬史の重要人物である。ダーシー家は、10世紀のノルマン・コンクエストの時代まで遡る家柄であるが、薔薇戦争の頃に家がヨーク党とランカスター党に分裂し、ダーシー男爵家とコンヤーズ男爵家にわかれた。それが17世紀に合一し、コンヤーズ=ダーシー家となった。この長く複雑な家の歴史を通じて、ダーシー家はヨーク州北部に所領を増やしていき、サラブレッド生産の黎明期には重要な役割を果たすことになった。
王室牧場長となる
イングランドでは、清教徒革命による短い混乱時代のあと、1660年に王政復古があり、清教徒に惨殺されたジェームズ2世の王子、チャールズ2世が新国王となった。チャールズ2世は父の影響で競馬好きだった上、若い頃から長くフランスでの亡命生活を送りフランス風の馬術教育も受けていた。
そんなわけでチャールズ2世が王位につくとまず、狂信的な清教徒たちによって破壊されていた王室牧場の復興を命じた。これを命じられ、新時代の王室牧場長に命じられたのが、大ダーシー(ジェームズ・ダーシー)であった。大ダーシーは、王室から「陛下のためにタットベリーの王室牧場へゆき、かつての姿に戻し、陛下のためにまた名馬を輩出できるようにせよ」と命じられた。トマス・モーガン少将(Major-General Thomas Morgan)は大ダーシーに、「なにか困ったことがあったらトマス・モーガン将軍の名を出せ」と申し添えたという。
ところが、大ダーシーが実際にタットベリー王室牧場に行ってみると、そこは想像以上に破壊と略奪を受けていた。往年のタットベリーには、ヨーロッパ中と東方から集められた140頭もの駿馬たちが繋養されていたが、それらの馬はみな奪い去られて散逸しており、かつての王や姫たちが暮らした王城そのものも破壊されていた。
大ダーシーはチャールズ2世のために次のような手紙をしたためた。
「国王陛下、タットベリーには、陛下の牧場と呼べるものは残されてはおりません。タットベリーはその用に供するにはもはや不可能でございます。もしよろしければ、私の領地によい種馬を2頭持っておりますので、毎年決まった額をお支払いいただければ、優駿を毎年決まった頭数、競走馬として提供いたします。」
1661年6月の公文書にダーシー家とチャールズ2世の馬の取引が記録されていることから、この大ダーシーの申し出は受諾されたものと考えられている。のちの小ダーシーの訴えによると、チャールズ2世は毎年800ポンドをダーシー家に支払い、ダーシー家は毎年12頭の名馬を引き渡すという約定だったという。こうして、ダーシー家のセトベリーの牧場は事実上の王室牧場(王室御用達競走馬牧場)となり、「ロイヤルメア」と呼ばれる牝馬を出すことになった。