アップルヤード家

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アップルヤード家、王に仕えてナイト爵位を得る

アップルヤード家は、ヨーク地方とリンカーン州に領地をもつ郷士だった。もともとは15世紀からリンカーン州方面に領地を構えていたのだが、1609年に本拠地をハンバー河を挟んだ対岸のヨーク地方に移したという。本領はヨーク州東ヨーク県イースト・ライディングのホルダネス半島にバーストウィック(Burstwick)という村の近く、バーストウィックガース荘園(Burstwick Garth)という。バーストウィックはハル市から10マイル(約16km)ほどの距離にある。

家の古いことははっきりしない。もともとは信仰心厚い家柄だったようで、17世紀前半にドイツで宗教戦争(30年戦争、1618年-1648年)が起きると、アップルヤード家の若い子息たちは聖戦に身を投じたそうだ。が、戦場を経験した彼らは、敬虔さよりも現世で財産を築くことのほうが大切だと考えるようになったという。

まもなくカトリックとプロテスタントの諍いはイングランドにも波及し、1639-1640年に主教戦争が起きた。この戦いは、スコットランドのカトリック勢とイングランドのプロテスタント・英国国教会の対立が軍事衝突に発展したものである。当時のイングランド王チャールズ1世は、もともとスコットランド王家のステュアート家の出身であるから、難しい政治決断を迫られることになった。イングランド王は英国国教会の長であるから、その立場に立たねばならない。王は反乱鎮圧を決断した。

スコットランド臣民も、スコットランド系のステュアート家への忠誠心と英国国教会への反発のあいだに挟まれ、悩ましい状況にあった。彼らはイングランドの宗教政策・英国国教会に対して武装蜂起したのだが、イングランド王チャールズ1世へは忠誠を誓うという相反する主張を掲げていた。

伝統的に、イングランドがスコットランドと戦う時、兵はイングランドとスコットランドのあいだに位置するヨーク地方で召集することになる。アップルヤード家の若者はこれに応じ、ヴァヴァサワー家の指揮のもとで戦ったという。

しかし、財政難に苦しむチャールズ1世側は僅かな兵しか集められず、数で勝るスコットランド勢の前に惨敗した。王はスコットランドに対して賠償金を支払う羽目になり、これがさらに財政悪化に追い打ちをかけた。チャールズ1世は議会を招集して負担を求めるが、イングランド内の宗教過激派(清教徒)は猛烈に反発、1642年にとうとう清教徒は王に対して挙兵、反乱を起こした。これが清教徒革命の始まりである。

この内乱で、イングランド国内は王党派と議会派(清教徒)に別れて戦った。アップルヤード家は王党派についた。当時の当主、マシュー・アップルヤード(1607-1670年)は1645年に地元の兵を率いてチャールズ1世に謁見し、「経験と勇気を兼ね備えた有名な戦士」と激賞され、ナイト爵位に叙されたという。

しかしネーズビーの戦いでクロムウェル軍に大敗したのを契機に、王党派は劣勢に陥る。アップルヤードの軍も包囲され、投降せざるを得なくなった。これによりアップルヤード家の資産は没収され、マシュー・アップルヤードにはわずか20ポンドの財産しか残されなかったという。チャールズ1世が処刑され、クロムウェルがイングランド全土を掌握すると、マシュー・アップルヤードは戦犯として投獄された。

だがその直後、クロムウェルがインフルエンザに罹って急死、これによってマシューはかろうじて死刑を免れた。まもなく1660年に王政復古がなされると、マシューはアップルヤード家の再興を果たした。アップルヤード家の子弟のなかには王党派に与さない者もいたのだが、彼らを含め兄弟は皆、跡継ぎもないまま死んでいたため、結果的にはアップルヤード家のほとんどの資産が戻ってきた。

マシューは、新王によって、交易都市ハルの課税官に任命された。まもなくマシューはこの職を息子のマシューに譲り、自身はハル市に隣接するヘンドンの町に移った。そしてこの地区から国会議員として選出された。

アップルヤード家と馬産

マシューの妻はフランセスといい、リンカーン州ブロックレスビーのウィリアム・ペラム卿の娘である。このペラム家は馬産家としてよく知られていて、フランセスの兄弟であるチャールズ・ペラムはオルコックアラビアンカーウェンベイバーブの馬主として有名である。

Curwen Bay Barb, Old Spot, Spanker, Families 9, 23, etc.を参照。


ナイトの地位を築いた初代マシュー・アップルヤードの孫にあたるのがフランシス・アップルヤードである。彼は地元の民兵団を率いており、「Captain(大尉)」の肩書で呼ばれていた。





アップルヤード家は、ヨーク地方の他の馬産家たちと長年にわたり結びついてきた。

The family had long-term ties with other Yorkshire families that bred running horses:

マシュー・アップルヤード卿は、リンカーン州ブロックレスビーのSir William Pelhamの娘、フランセス・ペラムと結婚した。ペラム家は、重要な馬産家Charles Pelhamがいる。(フランセスはこのチャールズの姉or妹。)※Curwen Bay Barb, Old Spot, Spanker, Families 9, 23, etc.を参照。

Sir Matthew married Frances Pelham, the daughter of Sir William Pelham of Brocklesby, Lincolnshire, and sister of the important horse breeder Charles Pelham (see Curwen Bay Barb, Old Spot, Spanker, Families 9, 23, etc.).

Capt.フランシス・アップルヤードは、William Taylorの娘、アン・テイラーと結婚した。William TaylorはBald Charlotteの最初の馬主である。

Captain Francis Appleyard married Ann Taylor, the daughter of William Taylor, who first raced Bald Charlotte.


地方の民兵団を率いるcaptainである、Capt.フランシス・アップルヤードは、Burstwick Garthには住まず、North Newbaldに住むことを好んだ。North Newbaldは、ビヴァリーの南隣りにあり、Burstwick Garthからは西へ15マイルほどの距離にある。


The captain of the local army militia regiment, Francis did not live at Burstwick Garth, preferring to settle at North Newbald, just south of Beverley and about fifteen miles west of Burstwick Garth.


Capt.フランシス・アップルヤードは、18世紀初頭の数十年間、イングランド北部の競馬界で活発。彼の所有馬の大半は自身の生産馬。1730年代を通じて、ヨーク競馬場と、その周辺の競馬場で競走馬を出走登録し、ときには他者の名義を借りてニューマーケットへ遠征している。

He was active in north-country racing in the first few decades of the 18th century, his horses, most of which he bred, running through the 1730s at York and other venues to which he subscribed, and occasionally his horses ran in the name of others at Newmarket.


Bald Charlotteの母馬、「a brown mare」は、Capt.フランシス・アップルヤードの父、マシューの生産馬である。「a brown mare」の父馬はBethell's Castaway (1704)。Bethell's Castaway (1704)は、Kiplingcotes、Clifton Ings(旧ヨーク競馬場)、Rawcliffe Ingsで、カップ戦やプレート競走をいくつか勝った。そして繁殖牝馬となり、Burstwickに近いRise ParkのBethell studで繋養された。


Charlotte's dam, a brown mare bred by Appleyard's father, Matthew, was by Bethell's Castaway (1704), who won cups and plates at Kiplingcotes and Clifton and Rawcliffe Ings, a stallion at the Bethell stud at Rise Park, not far from Burstwick.


The Castaway mare's dam was a grey mare owned by Mathew Appleyard, by Brimmer," or in some pedigrees a grey son of Brimmer's, the latter owned by Hugh Bethell, and also seen in the pedigree of Castaway. Brimmer, who was in the D'Arcy stud at Sedbury, got a good runner and sire Burford Bull, Old Thornton (at the head of Family 2), Musick (the dam of the good sire (Old) Pert), and the mares early or at the head of a number of English foundation mare families. The "son of Brimmer" is recorded in the GSB as getting Bethell's Ruffler, a winner of several cups in north country venues, born in the last few years of the 1690s, whose unnamed sister was the dam of Castaway.

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