イギリス競馬の歴史

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2017年4月14日 (金) 18:32時点におけるJulyfestival (トーク | 投稿記録)による版 (「競馬の中心地」の黎明期)

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「競馬」の歴史の黎明期

いわゆる「競馬」の歴史を書こうとすると、どうしたってウマの家畜化の歴史からはじめることになる。アッシリアがどうしたとか、クビキがどうだとか、車軸がどうのとかを述べたあと、ローマの戦車競技を解説することになる。

だがしかし、このサイトではそれはスポイルする。面倒くさいからだ。それに、たしかにそれらは現代の競馬のルーツではあるだろうけど、サラブレッドの個体認識の制度が確立するよりも前の時代のことをいくら書いても、直接的に今のサラブレッドと結びつかないので、つまんないのだ。だからスポイルする。

というわけで、本サイトでは1600年から話をはじめることにする。

「競馬の中心地」の黎明期

ニューマーケットは「世界の競馬の中心地」(capital of horse racing)と呼ばれている。それは単にニューマーケットで大レースがあるとか、競馬が盛んであるとか、有力な調教師が集まっているとかの理由ではない。ニューマーケットの地で競馬についての重要な取り決めが行われてきて、世界中の競馬人がその取り決め「ニューマーケット規則ルール」に従っているからだ。だからまずは、ニューマーケットの歴史を眺めることで、「どうして世界の人々はニューマーケットで決まったルールに従ったのか」をみていくことにしよう。それが「競馬の歴史」に直結することになる。

1603年、スチュワート朝の誕生と競馬規則の発祥

然だが、1603年というのは日本人と英国人と競馬人にとってはキリのいい年である。言うまでもなく、日本では1600年の関ヶ原の戦いのあと、1603年に江戸幕府が成立し、260余年にわたる江戸時代=近世が開闢する。小学生でも知っていることだ。同じようにイギリスでは、1603年に新しい王朝が誕生している。それがスチュワート朝である。スチュワート朝はそこから約110年、1714年まで続く。そのあいだには色々と世界史レベルの大きな出来事があったのだが、スチュワート朝の時代に「グレートブリテン王国」が成立しており、今の「イギリス」の直接の原型が生まれている。そしてスチュワート朝時代に競馬も目覚ましい発展を遂げた。

スチュワート朝というのは、要するにスチュワート家がイングランドの王であった時代のことをさす。それよりも前のチューダー朝や後のハノーヴァー王朝とは一応の血縁関係があり、まったくの断絶があるわけではないが、時代区分としては大きな違いがある。