大異教軍

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歴史的背景

イングランド前史

5世紀初め頃、ゲルマン民族の大移動により古代ローマが衰退してブリタンニアを放棄すると[注 1]、まもなくブリテン島にはヨーロッパ大陸北部からゲルマン系諸族が侵入した[8][注 2]。侵掠者はアンゲルン半島からきたというアングル人、ドイツ北部のザクセン[注 3]からはザクセン人(サクソン人)、デンマークのユトランド半島[注 4]から来たジュート人に代表される「蛮族」であったという[8][12][注 5]





彼らはアングロ・サクソン人と総称されるようになり、ブリテン島にいたケルト系のブリトン人ピクト人を駆逐して新たな征服者となった[14][注 6]。やがてアングロ・サクソン人は6世紀から7世紀までにいくつかの有力な王国に収斂していき、七王国時代と呼ばれる割拠時代を迎えた[17][18][注 7]

ヴァイキングの略奪活動

かつては穏健な交易者としてヨーロッパに知られていたスカンジナビアの人々が、9世紀頃からおよそ250年の間、いわゆるヴァイキングとしてヨーロッパ各地を荒らし始めた理由や経緯については諸説ある。いずれにせよ、ローマが衰えて諸王国は海軍力を喪失して久しく、諸国は海伝いに移動するヴァイキングを食い止める術を持たなかった。ヴァイキングは、ヨーロッパ東方ではロシアを横切って黒海に至り、西方ではグリーンランドを経てアメリカ大陸にまで達した。そして南方では、イギリスやフランスの沿岸部を襲い、さらに地中海へ侵入してイタリアに到達している。


古典的な通説では、当時のスカンジナビアでは人口が増えすぎて土地が足りなくなっていたというのが原因だとされている。現代の歴史家はこうした考え方に疑問を呈し、少なくとも初期のヴァイキングたちは略奪をしてすぐ引き上げ、移住をしていないことを指摘している。スカンジナビアで凶作と飢饉が重なったという説もある。初めにヴァイキングの犠牲者となったキリスト教聖職者たちは、デーン人が宗教的な情熱に突き動かされてキリスト教徒に復讐に来たのだと宣伝した。8世紀の後半にフランスのカール大帝が北方へ遠征してドイツの非キリスト教徒に改宗しなければ殺すと脅し(ザクセン戦争)、逃げたザクセン人がデーン人へ助けを求めた結果、デーン人がキリスト教の修道院を襲うようになったと考えたのである。しかし実際には初期のヴァイキングはデーン人というよりはノルウェー人だった。


[注 8]


ヴァイキングとしてヨーロッパを脅かすようになるより以前から、スカンジナビアの民は商人としてヨーロッパ各地で知られていた。


ており、

ヴァイキングのイングランド侵入

脚注

注釈

  1. 西ゴート族アラリック1世がローマ市に攻め込んで略奪した410年に、西ローマ皇帝ホノリウスは、ブリタンニアの都市はこれより後は自分で自分の身を護るように布告を行った[1]。これをもってローマがブリタンニアを手放したとみなすのが通説である[2][3]。ただし、実際にローマがいつ頃どのように去っていったのかについては史料に欠きわかっていない[4][5]。この布告のあとも、ブリタンニアの民が外敵の侵入のためにローマに庇護を請うと、ローマは2度に渡って軍事介入を行った[6]引用エラー: 無効な <ref> タグです。 名前 (name 属性) が無効です (数が多すぎる、など)。しかし428年か449年に3度めの援助を求めたときにはローマに断られたという[2][7]。以後、ブリタンニアはアングロ・サクソン人の襲来に抗えなくなる[2]
  2. イングランド教会史』や『アングロサクソン年代記』などによる伝説的な挿話によれば、北方のピクト人の侵入を退けるための援軍をローマに断られたブリタンニアの民は、アングル人・サクソン人・ジュート人を傭兵とするためデンマークを訪れ、招聘に成功したという[2][9]。こうして449年にヘンギストとホルサEnglish版というゲルマン人の兄弟が戦士を率いてブリタンニアに赴き、約束通りピクト人を打ち破った。がしかし彼らはそのあとブリタンニアの民を裏切って、侵略者となったという引用エラー: 無効な <ref> タグです。 名前 (name 属性) が無効です (数が多すぎる、など)。この兄弟はのちの七王国のひとつ、ケント王国の建国者とみなされている[10]。ただしこのエピソードが何らかの史実を反映しているとはいえ、そのまま史実であるとは考えられていない[9][11]
  3. ドイツ語では「ザクセン(Sachsen)」、英語では「サクソニー(Saxony)」
  4. ドイツ語では「ユトラント(Jütland)」、英語では「ジャトランド(Jutland)」
  5. この時代は資料が極めて乏しく暗黒時代と呼ばれる。ブリタンニアへの異民族の来寇を伝えるほとんど唯一の史料がベーダ(672年or673年 - 735年)による『イングランド教会史』(731年成立)である[8]。「アングル人」「サクソン人」「ジュート人」と呼ばれた人々の原住地域を伝えているのも同書であり、長らくその記述が受け入れられてきた[8][13]。現代の言語学や考古学の研究からは、『イングランド教会史』の記述は大雑把には妥当であるが、必ずしも正確ではない可能性が指摘されている[12][8][13]。考古学的には「ジュート人」はライン川中流部のラインラントにルーツがありそうだということ、言語学的にはこれら3民族とオランダのフリージア人との関係が示唆されている[8]。ほかにもフランク人フリースラントフリース人らも混在していたとも考えられている[12]
  6. アングロ・サクソン人がどのぐらいの期間をかけて、どのようにブリテン島を席巻していったかについても、信頼できる史料を全く欠くためによくわかっていない引用エラー: 無効な <ref> タグです。 名前 (name 属性) が無効です (数が多すぎる、など)[15]。地名や遺跡などの傍証からは、アングロ・サクソン人はおおよそ200年をかけて現代のイングランドに相当する地域を獲得していったと推定されている引用エラー: 無効な <ref> タグです。 名前 (name 属性) が無効です (数が多すぎる、など)。しかしその間には、進出著しかった時代と、6世紀には50年間ほどの後退期・停滞期があったとされる引用エラー: 無効な <ref> タグです。 名前 (name 属性) が無効です (数が多すぎる、など)。同時代の唯一の証言者であるギルダスの『ブリトン人の没落』を信じるならば、アングロ・サクソン人は破壊と殺戮を行ってブリトン人を根絶やしにしようとしたということになる[16]。現代の歴史家は、ギルダスの記録には大げさな誇張があり、実際には両者のあいだでは通婚なども行われて緩やかに融合していったと考えている引用エラー: 無効な <ref> タグです。 名前 (name 属性) が無効です (数が多すぎる、など)
  7. ブリテン島の東南部から上陸したアングロ・サクソン人により、先住民たちはウェールズコーンウォールといった北部や東部へ追いやられていった。一部は海峡を渡ってフランス沿岸部へ入り、ブルターニュに土着した。
  8. 当時のブリトン人は、アングル人・サクソン人・ジュート人をあまり区別せずひとまとめに「サクソン人」と呼んだ。「アングロサクソン人」という呼称はもともと、「大陸のサクソン人」と区別するために「アングリアのサクソン人」の意味で用いられていたものである[19]

出典

  1. 『オックスフォード ブリテン諸島の歴史2 ポスト・ローマ』p11
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 『世界歴史選書 〈民族起源〉の精神史 ブルターニュとフランス近代』p16-17
  3. 『世界歴史大系 イギリス史 1 先史~中世』p39
  4. 『古代のイギリス』p108-109
  5. 『イギリス史1』p35
  6. 『イングランド王国前史 アングロサクソン七王国物語』p13
  7. 『イングランド王国前史 アングロサクソン七王国物語』p1-2
  8. 8.0 8.1 8.2 8.3 8.4 8.5 『全訳世界の歴史教科書シリーズ2 イギリスII その人々の歴史』p5-6
  9. 9.0 9.1 『イングランド王国前史 アングロサクソン七王国物語』p1-4,p14-15
  10. 『イギリス中世史 大陸国家から島国国家へ』p24-25
  11. 『オックスフォード ブリテン諸島の歴史2 ポスト・ローマ』p13-14
  12. 12.0 12.1 12.2 『世界歴史大系 イギリス史 1 先史~中世』p72-73
  13. 13.0 13.1 『イギリス中世史 大陸国家から島国国家へ』p22-23
  14. 『イングランド王国前史 アングロサクソン七王国物語』p3-4
  15. 『イギリス史1』p36
  16. 『イギリス史1』p37-39
  17. 『イングランド王国前史 アングロサクソン七王国物語』p20
  18. 『増補新版 図説 イギリスの歴史』p13
  19. 『増補新版 図説 イギリスの歴史』p11
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参考文献

洋書

和書