第3代グラフトン公爵下書き
目次
まとめ
3代グラフトン公とその子4代グラフトン公は、競馬とサラブレッド生産史における最大級の功労者の一人と評されている。父子は広大な領地で競走馬生産に執念を燃やし、自家生産馬を走らせた。
3代グラフトン公は、馬主としてダービー3勝、オークス2勝をあげた[注 1]。
馬主としてのグラフトン公の最も有名なレースの一つに、ヘロドとのマッチレースがある。
1764年に、グラフトン公は自家生産馬アンティノウス(Antinous[注 2])で、カンバーランド公のヘロドに500ギニー(525ポンド相当)を賭けて1対1の勝負を挑んだ[2]。この対戦の観戦者たちによる賭けの総額は10万ポンドに達した[2]。翌年、グラフトン公は1000ポンドを賭けたリターンマッチを申し込んだが、再び敗戦した[2]。
当時はまだ競馬規則は未整備の時代で、多くの馬主、調教師、厩務員、騎手たちは賭けで儲けるために当たり前のように不正行為をしていた(競走馬の能力を故意に発揮させないなどの「いんちき」は「不正」とはみなされていなかった。)。しかしグラフトン公は当時もっとも有名な馬主・生産者の一人であったが、そうしたインチキ行為に与しなかったので、当時から稀有なホースマンとみなされていた。
1774年当時、グラフトン公はノーサンプトン州のWakefield Lodgeやサフォーク州ユーストンのユーストン・ホールといった広大な領地からのあがりだけで年9,000ポンドの収入があり、これに官職等の収入を加えると、年収は18,000ポンドに達した[3]。グラフトン公はこの富をユーストン・ホールの邸宅整備や競走馬生産に費やした。
ユーストン・ホールの牧場(ユーストン牧場とも)は「19世紀の第1四半期におけるイギリスで最強の牧場[4]」となった。
「奇人」とみなされた[注 3]
ユーストン・ホールは「競馬の中心地」と呼ばれるニューマーケットから約18マイル(約29キロメートル)の位置にあり、グラフトン公は競馬観戦のために自宅からニューマーケットまで、自分専用の並木道を整備させたことがある[1]。しかしこの工事は残り6マイル(約10キロメートル)のところで頓挫した[1]。そこから先は他人の所有地を横切ることを失念していたためだった[1]。
ヘリテイジ
- https://www.tbheritage.com/Breeders/Grafton/Grafton1.html
- https://www.tbheritage.com/Breeders/Grafton/Grafton2.html
- https://www.tbheritage.com/Breeders/Grafton/Grafton3.html
- https://www.tbheritage.com/Breeders/Grafton/Grafton4Breeding.html
- https://www.tbheritage.com/Breeders/Grafton/Grafton4Breeding.html
- https://www.tbheritage.com/Breeders/Grafton/Grafton4Breeding.html
2
by the time Charles' great-great-grandson, Augustus Henry, the 3rd Duke of Grafton, reached middle age, his annual income due to these pensions had swollen to £9,000 a year, and other sinecures brought his total yearly income to £18,000, a true fortune in 1774.
1774年当時、グラフトン公爵家の主な領地にはノーサンプトン州のWakefield Lodge、サフォーク州ユーストンのユーストン・ホールなどがあり、そこからのあがりだけで年9,000ポンドの収入があった。これに官職等の収入を加えると、3代グラフトン公爵の年収は1万8000ポンドに達した。
グラフトン公はユーストンの広大な敷地でサラブレッド生産にうちこんだ。
- ケンブリッジ大学在学中には、家庭教師ホレス・ウォルポールによる個人的指導も受けた。
- 世間はグラフフトン公の妻を若くて才色兼備の女性と評した。しかし公は、妻子と過ごすよりも、狩猟や賭事を大切にし、競馬やカードゲームに大金を費やした。次第に夫婦関係は冷えていった。
- 1763年頃から、 Nancy Parsonsとの関係が始まった。1767年頃からはその関係を公にするようになり、ジュニアスらによって公然と批難された。夫人は娘のジョージアナを連れて家を出た。9歳になる息子の4代公は3代公のもとに残った。
- まもなく、まだ籍は残っていたが、夫人は Thomas Butler, Earl of Ossoryの子を妊娠した。その後、議会による離婚の承認が得られると、夫人はすぐにThomas Butler, Earl of Ossoryと再婚した。
- 公のほうは、その頃にNancy Parsonsとの関係を終え、Elizabeth Wrottesley,と再婚した。
- 後年、公は神学にはまった。
- そしてイングランド国教会を離脱し、非国教のユニテリアン主義に走った。これは家族や友人たちを困惑させたという。
- 公は神学に関する書物を2冊著した。
- うち1冊はJohann Jakob Griesbachの「 Novum Testamentum Graece」(ギリシャ語版新約聖書)のreprintの自費出版で、これを友人たちへ送りつけた。
- 農業にも深い感心を示し、自ら各地の農業博覧会に足を運んで種畜・種苗を見物した。
The Racing
祖父の2代公は、33年間、王のLord Chamberlainとして仕えた。2人の王に。そして2代公は熱心なsportmanだった。彼は狩猟を楽しむため、Whittlebury Forestで捕獲したキツネを自領地へ連れて行って放した。Wakefieldやユーストンに。猟犬は、Wakefieldでの狩猟シーズンが終わると、温かいユーストンに連れていき、そこで引き続き狩猟をやった。
3代・4代公もこれを受け継いだ。
2代公は、1748年にウェストミンスター橋を架ける際に、熱烈に支援した。これは狩猟用の猟犬や猟騎馬をテムズ川の向こうへ運びやすくするためなんだろう、と噂された。
2代公は72歳のときに落馬し、それで狩猟をやめた。
ユーストンの競馬用の厩舎は3代公がはじめた。
ちょうど3代公の時代に、競馬のレースは様変わりした。古馬による長距離ヒート戦から、若馬による一発勝負のクラシック戦へ。
3代公・4代公の馬は、1800-1837にダービーとオークスを合わせて25勝した。4代公は2000ギニー5回、1000ギニーは1819-1827の9年間で8勝した。
The Breeding
この時代に、エクリプス×ヘロド(ヘロド×エクリプス)のニックスがおこなわれた。
当時は長距離ヒート全盛期だったが、しだいに若馬短距離クラシックが主流になるにつれ、系統もより短い距離を速く走るように改良されていった。
※
馬主としては自らの生産馬でダービー3勝(1802、1809、1810)、オークス2勝をあげた。ダービー3勝は、同時代としては最も多い部類。(第3代エグレモント伯爵が、同時代人としては4勝をあげ、3代グラフトン公の没後に5勝目をあげた。アガカーン3世・4世も4勝どまり。現代では共同馬主などによって様相は大きく変わっており、2001-2020年に9勝をあげたのが首位。)
生産者としては、サラブレッド史の最重要人物の一人。
主な活躍馬
- Antinous 1758年頃 種牡馬
- old Leonatus 1770年頃 種牡馬
- Tyrant 1802 ダービー優勝 当時の雑誌は「歴代勝馬のなかでは最低ランク」とし、勝ったのは騎手のフランク・バックルの好騎乗によるところが大とした。種牡馬としてもぱっとしなかった。
しかしタイラントの勝利以降、グラフトン公は爆発する。
Mortimer
- 『Biographical Encyclopaedia of British Flat Racing』Roger Mortimer and Richard Onslow and Peter Willet,Macdonald and jane's,1978,ISBN 0354085360
- p246-247「GRAFTON,AUGUSTUS HENRY FITZROY,3RD DUKE OF (1735-1811)」
クラシック勝ちは
- one of the most curious of English eccentrics,
- one of the most successful owner-breeders of throughbreds for a much longer period.
- neither he nor his son the 4th Duke believed in challenging for teh ST.Leger, and he had little chance of winning either 2000 Guineas or the 1000 Guineas , as the former was founded onlt two years before his death, the latter not until 1814.
- As far as the Turf was concerned, his eccentricity was demonstrated by his order for the planting of an avenue of trees from his park at Euston in Nofolk to Newmarket, 18 mi away, so that he could drive to the race over the grass.
- The avenue had to stop 6mi short of its objective, becaouse the Duke had overlooked the fact that it would have to pass over somebody else's land.
公爵の奇行をよく示す行動のひとつに、自分の牧場(ユーストン、ノーフォーク)からニューマーケット競馬場まで18マイルの道に芝生を植えさせたことがある。そうすれば競馬場まで芝の上を走っていけるからだ。
しかしこの計画は、ニューマーケットまであと6マイルというところで、他人の土地を横切らなければいけなくなって頓挫した。
競馬での成功は、1763年に7歳牝馬のJulia(父Blank、英CS3回)を購入したことに始まった。
その5年後、JuliaはPromise(父Snap、英CS4回)という牝馬を産んだ。
PromiseはPrunella(父ハイフライヤー、英CS)を産んだ。
英CSを累代配合されたPrunellaは輝かしい牝馬となり、11頭の一級馬をうんだ。これらの馬の名はみんな頭文字が「P」で始まる。PelisseやPopeもその一例。
Prunellaの牝駒、Penelopeは18勝を挙げ、繁殖牝馬としても活躍した。その産駒にはWhaleboneとWhiskerがいる。さらにWebもいる。WebはLord Jerseyに売却され、その牧場の基礎牝馬として大成功した。
Tyrantはグラフトン公に最初のダービー優勝をもたらした。父はPot8os。その種牡馬としてのprowess(豪勇)はグラフトン公を感心させた。そこでグラフトン公はPot8osの最良の産駒、Waxy(1793年のダービー馬)を購入した。これを自身のユーストンの牧場につれていき繋養した。この判断は大当たりで、WaxyはPope、Whalebone、Whiskerを出した。グラフトン公はWaxyをPrunellaとPenelopeに盛んに配合した。これが現代サラブレッドの発展に大きな影響を与えることになった。
Pウィレット「サラブレッド」
- P・ウィレット・著、日本中央競馬会・訳、『サラブレッド』、昭和53年。(Peter Willet,“The Throughbred”,1970の翻訳版)
- p44
- 第3公爵は、イギリスの奇人の中でも最も風変わりな人物の1人であったが、エクリプス=ヘロドの配合に対する彼の信念のおかげで、ユーストン・ホール(ノーフォークのセトフォード近郊、そしてニューマーケットから20マイル足らず)にある彼の牧場は、19世紀の第1四半期におけるイギリスで最強の牧場になったのである。
- p43-44
- 公はエクリプスとヘロドの配合を徹底し、この配合で4頭のダービー馬を出した。
- ※うち1頭は4代の名義
デニスクレイグ・ネーピア「競馬」
- p73
- 18勝しているペネロピという牝馬にワキシーを配合して、全兄弟馬のホエールボーンとウィスカーを生産した。両馬は、その父馬と同様に、いずれもダービーを勝っている。
競馬の世界史
- p85
- ワクシー、ホエールボーンはともにダービー勝ち馬であり、この2頭はエクリプスとヘロドのニックスにおける最高の例である。これらのウマが樹立した牡系統は、世界で最も反映しており、エクリプスがこの牡系統の基礎になったといわれるゆえんである。
HEADQUARTERS
- 35
公務より競馬を愛した。
首相在任時、官邸を放り出してニューマーケットに行った。「競馬があるから明日の夜まで戻らないよ」と2回手紙を送り、官邸を空転させた。
When the cabinet was to assemble for dinner at Lord Shelburne's London house he sent a message to say that he could not be in town until late in the evening as he was matching a horse at Newmarket in the morning .
首相在任時、シェルバーン伯爵のロンドンの邸宅で内閣のメンバーが集まる晩餐会が招集されたが、グラフトン公は「翌朝、ニューマーケットの競馬の予定があるので、あまり夜遅くまでロンドンに居るわけにはいかない」とメッセージを送ってよこした。
まもなく2通目のメッセージが届いた。それには「明日の夜までニューマーケットにいるのでロンドンには戻らない」と書いてあった。首相の不在のため内閣は何の決定もできなくなり、まるまる一日を無為に過ごす羽目になった。
He then sent a second message announcing that he would not be in London until the following evening, with the result that the cabinet wasted a whole day in which it was unable to transact any business because of the absence of the Prime Minister at Newmarket.
Harshest of all the critics of the Duke of Grafton was the anonymous political comentator Junius.
The private life of the Duke was hardly ane more edifying than his public.
Even robust Georgirian England was scandalised by his taking his lovely mistress Nancy Parsons to the races at Newmarket and to the theatre.
- p36
- Very early in his assocation with Newmarket the Duke of Grafton made one of the most celebrated matches ever staged on the Heath.
For 1000£ a side he ran his horse ANtinous against the Duke of Cumberaland's Herod iver the Beacon COurse in 1764.
So heavy was the betting that something like 100,000 is reupted to have been dependent upon the outcome and after a desperate race the verdict of a short neck was awarded to Herod , whose male line is mainteained by Blakeney and Julio Mariner.
The year before he matched Antinous against Herod, the Duke of Grafton founded the great stud at his Nofolk home, Euston Hall, by the purchace of the seven-y-o mare Julia, whose sire Blank was by the Darley Arabian.
18mileの道路の件
In order to be able to drive the 18 miles from Euston Hall to Newmarkt over grass the third Duke of Grafton gave order for the plantation of an avenue through which his carriage could pass.
Unfortunately he forgot that he did not own the land over which the last six miles should have run, so that this arboreal ornament to the East Anglian countryside came to an abrupt end after twelve miles.
神学の件
as if to atone for transgressions against the church and disservice to the State in early life, the Duke took to writing religious tracts and embraced Unitarianism in late middle age.
while thus engrossed in matters theological he left the management of his horses to his sons the Earl of Euston, his heir ,
出典
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 Roger Mortimer and Richard Onslow and Peter Willet、『Biographical Encyclopaedia of British Flat Racing』、Macdonald and jane's、1978。ISBN 0354085360。pp.246-247「GRAFTON,AUGUSTUS HENRY FITZROY,3RD DUKE OF (1735-1811)」
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 Througbred Heritage、Patricia Erigero、The Dukes of Grafton: The Racing。2020年7月18日閲覧。
- ↑ 3.0 3.1 Througbred Heritage、Patricia Erigero、The Dukes of Grafton: The Dukes。2020年7月18日閲覧。
- ↑ 4.0 4.1 4.2 P・ウィレット・著、日本中央競馬会・訳、『サラブレッド』、昭和53年。(Peter Willet,“The Throughbred”,1970の翻訳版)
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