Supreme Court

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シュプリームコートSupreme Court)はイギリス産のサラブレッド。第1回のKジョージ6世&QエリザベスSをレコード勝ちした。種牡馬としても成功した。

Supreme Court {{{inf}}}
Precipitation
1933 栗毛 イギリス
またはPersian Gulf
Hurry On Marcovil
毛色 鹿毛 Tout Suite
生年 1948 Double Life Bachelor's Double
生産地 イギリス Saint Joan
生産者 Thomas Lilley Forecourt
1943 鹿毛 イギリス
Fair Trial Fairway
馬主 Vera Lilley Lady Juror
調教師 Evan Williams Overture Dastur
成績等 11戦5勝 Overmantle F-No.-
  • 2~5歳時11戦5勝

1942年の種付けシーズンに、シュプリームコートの母であるフォアコート(Forecourt)には、プレシピテーションとパーシャンガルフPersian Gulf)とが交配された。現在では繁殖牝馬に対して1シーズンに異なる種牡馬が交配されることは稀だが、当時はこうしたやり方は許容されていた。生まれてきた子の父馬がどちらであるかは様々な状況を合理的に考慮して決められており、シュプリームコートの場合は父がプレシピテーションであろうとされている[1][2]。ただし公式な血統記録には「プレシピテーションまたはパーシャンガルフ(Presipitation or Persian Gulf)」のように記録されるし、リーディングサイヤーを決定する際の収得賞金には加算されない。本項では父馬がプレシピテーションであるとして説明する。

シュプリームコートは仔馬の時に2000ギニーで売りに出されたが、買い手がつかなかった。そこで生産者のトーマス・リリーは、シュプリームコートを妻のヴェラへ9回目の結婚記念日のプレゼントにすることにした。誰もシュプリームコートに期待していなかったのでクラシック登録も行わなかった。ニューマーケットのマーカス厩舎に預けられたが、アガ・カーンが持ち馬をマーカス厩舎に預けることになると、馬房をあけるためにシュプリームコートは追い出されてしまい、やむなくキングスクレアイワン・ウィリアムスが預かることになった[3]

競走成績

シュプリームコートは2歳(1950年)でデビューし、ホーリスヒルステークスに勝った。

3歳(1951年)になると、ホワイトロッジSを勝った後、シュプリームコートにはクラシック登録がないのでダービーには出られないのだが、ダービー前哨戦として知られるチェスターヴェースに出て無敗のまま優勝した。チェスターヴェースは、ダービーの1ヶ月前にダービー(12ハロン10ヤード=約2423メートル)と同距離(1マイル4ハロン66ヤード=約2474メートル)で行われるため、一般にはダービーの前哨戦の一つと考えられている[4]

この年のダービーはアークティックプリンスが勝った。6馬身差の2着だったシビルズネフュー(Sybil's Nephew)は、キングエドワード7世ステークス(1マイル4ハロン=約2414メートル)に出たが、シュプリームコートはここでシビルズネフューを破った。ダービー馬アークティックプリンスと無敗のシュプリームコートのどちらが強いのか話題になったが、シビルズネフューにつけた着差を物差しにするなら、アークティックプリンスのほうが上ということになる[5]

この年は大英博覧会開催100周年にあたり、イギリスでは夏に大々的に「英国祭(en:Festival of Britain)」を行った。ヨーロッパの競馬界では、数年前に凱旋門賞が賞金を引き上げて史上空前の3000万フランの高額賞金競走となって、世界中の一流馬を集めて大成功していた。一方、アスコット競馬場で同時期に行われてきたキングジョージ6世ステークスは凱旋門賞に出走馬を持って行かれて撤退を余儀なくされた。そこでアスコット競馬上では、英国祭にあわせて、従来から夏に行ってきたクイーン・エリザベスステークスとキングジョージ6世ステークスを統合し、7月に新設の高額賞金競走を企画した。このフェスティバル・オブ・ブリテン・ステークス(英国祭大賞)は、1着賞金が25000ポンドを超え、英国競馬史上、最高賞金の競走になった[6][3][7]

この大イベントには、フランスから前年の凱旋門賞馬タンティエームがやってきた。ダービー馬アークティックプリンスも出走を表明し、ほかにもクラシック勝馬が何頭も出走した。レースの序盤からモスボローが速いペースで逃げ、最期の直線を向くと、シュプリームコートとズッケロ(Zucchero)との一騎打ちになった。200メートルに及ぶ争いの末、シュプリームコートが3/4馬身差で勝ち、走破タイムの2分29秒4はコースレコードになった。タンティエームは離された3着どまりだった[3][8]。前述のとおり、シュプリームコートの獲得賞金は父プレシピテーションに加算されないが、もしシュプリームコートの賞金を加えると、プレシピテーションはこの年のイギリスのチャンピオンサイヤーとなる[9][10]

種牡馬成績

シュプリームコートは種牡馬になって10年間供用された。産駒で最も大きなレースに勝ったのは牝馬のゴールデンガールGolden Girl)で、フランスのヴェルメイユ賞に勝った。

牡馬ではエンシャントライツAncient Lights)が2歳の時にデューハーストSに勝ち、アルゼンチンで種牡馬になった[11][12]。このほかミドルパークSに勝ったパイプオブピース(Pipe of Peace)、ジムクラックSに勝ったテストケイス(Test Case)、ジョッキークラブSに勝ったコートプリンス(Court Prince)あたりが代表産駒である[11]。一流競走馬の牡馬は出ず、活躍馬の多くはオーストラリアやニュージランドに売却されて種牡馬になった。また、カドマスCadmus)はフランスでダルクール賞に勝ち、オランダへ輸出されて種牡馬になっている[12]

ロダン(Rodin)は競走馬としては未勝利だったが、リボーの半弟ということで注目を集め、アルゼンチンへ輸出されて種牡馬となったが全くダメだった。その後フランス、日本と転売を繰り返されたが活躍馬は出ず、最後は日本で2年供用されただけで死んだ。日本で最も成功したシュプリームコートの産駒は牝馬のマイリーで、繁殖牝馬として日本に輸入されると、のちに“華麗なる一族”と呼ばれる一流馬の祖になった。

主な父系子孫

*伯はブラジル。

Supreme Court
マイリー* 1953 牝馬
|Final Court 1953 牡馬
||City Court 1964 騙馬 ウェリントンカップ
Pipe of Peace 1954 牡馬 ミドルパークS
||Piper's Son 1959 牡馬 メトロポリタンハンデキャップ (オーストラリア)
||Great Exploits 1964 騙馬 チッピングノートンステークス
||Black Onyx 1965 騙馬 サイヤーズプロデュースS
||Always There 1965 牡馬 VRCダービー、ムーニーバレーS(G2)
ゼモングース* 1955 牡馬
||ニューカイモン 1969 牡馬 東海桜花賞、ゴールドカップ、ダイヤモンド特別
|Huaralino 1957 牡馬 パナマ・チャンピオンサイヤー
Ancient Lights 1957 牡馬 デューハーストS
||Altier 1967 牡馬 伯・共和国大統領大賞
テストケイス* 1958 牡馬 ジムクラックS
||Ben Lomond 1964 牡馬 ニュージーランド3歳チャンピオン
||Marnie 1966 牝馬 ニュージーランド3歳牝馬チャンピオン
||Counsel 1971 牡馬 ニュージーランド2歳チャンピオン
||Llananthony 1968 牡馬 ニュージーランドセントレジャー、ウェリントンダービー
|||Yes Indeed 1989 騙馬 ウェリントンカップ
||イシノマサル 1972 牡馬 京都大賞典
||ハッピーダービー 1974 牡馬 福島3歳ステークス2着。種牡馬
|King's Son 1958 牡馬
||Mansoor 1969 騙馬 インドダービー
|Fraxinus 1960 IRE 牡馬 ブライトンチャレンジC(コースレコード) NZ種牡馬
||Iechyd NZ2000ギニー2着、ウェリントンダービー3着
Golden Girl 1963 牝馬 ヴェルメイユ賞
Cadmus 1963 牡馬 ダルクール賞
||Gravelines 1972 牡馬 ジャックルマロワ賞G1、ムーランドロンシャン賞G2、パンアメリカンHG2

脚注

  1. 『サラブレッドの世界』サー・チャールズ・レスター著、佐藤正人訳、サラブレッド血統センター刊、1971、p498-499
  2. 『競馬 サラブレッドの生産および英国競馬小史』デニス・クレイグ著、マイルズ・ネーピア改訂、佐藤正人訳、中央競馬ピーアールセンター刊、1986,p175
  3. 3.0 3.1 3.2 The Palm Beach Post紙 1951年6月22日付2013年10月28日閲覧。“”
  4. 有名なところでは、Bayrdoハイペリオンシャーガーなどがチェスターヴェースからダービーを制している。2013年のルーラーオブザワールドも同様である。
  5. Evening Times紙 1951年7月20日付2013年10月28日閲覧。“it is difficult to assess how much he(Arctic Prince) is superior to the other English three-year-olds,including the unbeaten Supreme Court,which did not run in the Derby.”
  6. アーサー・フィッツジェラルド・マイケル・セス・スミス 『凱旋門賞の歴史 1920〜1951』 草野純訳、財団法人競馬国際交流協会、1995年。p300
  7. この年のダービーの賞金は約19500ポンド。登録料を含むので、年ごとに賞金は前後する。Sydney Morning Herald紙 1951年5月31日付2013年10月28日閲覧。“アークティックプリンスがダービー優勝”
  8. The Calgary Herald紙 1951年6月21日付2013年10月28日閲覧。
  9. 公式にはこの年のチャンピオンサイヤーは47000ポンドを稼いだナスルーラ
  10. 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「TH_HO」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  11. 11.0 11.1 『日本の種牡馬録3』白井透・著、サラブレッド血統センター・刊、1977、p328-329「テストケイス」
  12. 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「yamano_1970」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません

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