ジョン・ウェズリー・ヘインズ2世
en:John Wesley Hanes II(oldid=702546995)
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ジョン・ウェズリー・ヘインズ2世(John Wesley Hanes II,1892.04.24 - 1987.12.24)は、アメリカの投資銀行家・経営再建家である。ヘインズ2世はアメリカ合衆国財務副長官を務めたほか、ニューヨーク競馬協会(NYRA;New York Racing Association)の会長となり、サラブレッドの生産者と馬主として、アメリカ競馬名誉の殿堂博物館に模範ホースマンとして殿堂入りしている[1]。
生い立ち、家族と私生活
ヘインズ2世はノースカロライナ州のウィンストン・セーラムで生まれた。父はジョン・ウェズリー・ヘインズ1世( John Wesley Hanes)、母はアナ・ジャネット・H・ヘインズ(Anna Jannette Hodgin Hanes)という。父のヘインズ1世は衣料大手のen:Hanesの創業者[注 1]である。ヘインズ1世はタバコ大手のR.J.レイノルズ・タバコ・カンパニーの大株主でもあった。
ヘインズ2世の兄であるロバート(en:Robert March Hanes,1890-1959)は、1919年にワコビア銀行の出納係となり、1931年には頭取まで出世し、1956年に引退するまでその座にいた人物である。
ヘインズ2世はバージニア州マディソン郡のウドベリーフォレスト校(en:Woodberry Forest School)を経て、イェール大学を1915年に卒業した。ヘインズ2世は兄に似て金融に長けていた。
ヘインズ2世は1916年にアグネス・ミッチェル(Agnes Mitchel)と結婚し、4人の子を設けた[2]。アグネスは1935年9月19日にニューヨーク州ライ(en:Rye (city), New York)の自宅で亡くなった[3]。1937年にホープ・ヤンデル(Hope Yandell)と再婚し、1人の娘を設けた。
職歴
ヘインズ2世は第一次世界大戦で海軍に従軍した。終戦後はニューヨーク市へ出てウォール街の株式仲買業者であるチャールズDバーニー社(Charles D. Barney and Company。モルガン・スタンレー(en:Morgan Stanley Wealth Managementの前身)で債券のセールスマンとなった。
ヘインズ2世はすぐに頭角を現し、事務所の共同経営者となり、1935年までに上級共同経営者(senior partner)に昇格した。ヘインズ2世はニューヨーク証券取引所の理事(governor)となり、その高い手腕を買ったフランクリン・ルーズベルト大統領によって1937年に証券取引委員会の委員に任じられた[4]。
1938年5月、ルーズベルト大統領はヘインズ2世を財務省次官補(Assistant Secretary of the Treasury)に任命した[5]。さらに10月にはロズウェル・マギル(en:Roswell Magill)の後任としてアメリカ合衆国財務副長官に任命した[6]。
ヘインズ2世の関心はもっぱら収支改善の研究(Revenue Revision Study)に向けられた。ヘインズ2世はその研究が一段落すると、1939年12月31日に辞任し、民間企業に戻ることにした[7]。1940年アメリカ合衆国大統領選挙では、ヘインズ2世はルーズベルトではなく、対立候補のウェンデル・L・ウィルキーの支持に回ったが、選挙には敗れた[8]。
財務再建のプロとして
1940年6月、経営不振に陥った船舶・運輸業のユナイテッド・ステーツ・ラインズ社(en:United States Lines)と、その親会社のインターナショナル商船社(en:International Mercantile Marine Co.)は、経営再建のためにヘインズ2世を雇い入れた。ヘインズ2世は取締役の一員となり、両社の経営管理委員(executive committee)の委員長(chairman)に指名された。[9]
その1ヶ月後、ヘインズ2世の評判を聞いて、債務過多に苦しむ出版大手のハースト・コーポレーションもヘインズ2世を招聘した。ヘインズ2世はハースト社の取締役会に入り、財務委員会の委員長に指名された[10]。
ヘインズ2世にはジョン・M・オーリン(en:John M. Olin)という長年の友人がいた。オーリンは化学製造業のオーリン社(en:Olin Corporation)の代表取締役社長であったが、熱狂的な競馬ファンだった。ヘインズ2世は1949年から10年がかりでオーリン社の再建経営にも取り組み、32年にわたって同社の取締役を務めた。
競馬との関わり
生産者・馬主として
ヘインズを競馬の世界に引きずり込んだのは妻のホープだった。夫妻は持ち馬をアメリカ、イギリス、アイルランドで走らせた。さらに、マイバブー(1948年イギリス2000ギニー優勝馬)、ナシュア(1955年のアメリカ二冠馬)、ロイヤルチャージャーなどの一流種牡馬を共同所有者として購入した。夫妻の持ち馬として特に有名なのは、ジョン・M・オーリンやジョン・R・ゲインズと共同所有したボールドビッダー(en:Bold Bidder)(アメリカ古牡馬チャンピオン)である。[11]
競馬会の重鎮として
ヘインズ2世は1968年から1970年まで、アメリカ競馬名誉の殿堂博物館の館長(President)を務めた[12]。1982年には「模範ホースマン(Exemplar of Racing)」として名誉の殿堂入りを果たした。これは、2016年時点で、ヘインズ2世も含めて5人しか受けていないものである[13]。
1953年にヘインズ2世はニューヨーク競馬協会(NYRA)の開催委員(steward)に選ばれ、1954年から1960年までは無報酬でNYRA会長を務めた。ヘインズ2世の在任中の1959年9月14日には、アケダクト競馬場の改築・新装開場が行われた。1960年に、ニューヨーク競馬記者協会(New York Turf Writers Association)はヘインズ2世を「競馬のために最も尽力した人物」と評した[14]。ヘインズ2世は心臓の病のため、1961年の末にNYRAの職を退き、コネチカット州ニューロンドンのローレンス記念病院(Lawrence & Memorial Hospital)に入院した[15]。
脚注
注釈
- ↑ 創業時の社名は「Shamrock Mills」
出典
- ↑ New York Times - December 31, 1987 obituary for John W. Hanes
- ↑ New York Times - November 22,
- ↑ New York Times - September 20, 1935
- ↑ Securities and Exchange Commission Historical Society
- ↑ Meriden (Connecticut) Daily Journal - May 13, 1938
- ↑ New York Times - October 29, 1938
- ↑ Baltimore Sun - December 23, 1939
- ↑ Cayuga Chief (Weedsport, New York) - Aug 9, 1940
- ↑ New York Times - June 5, 1940
- ↑ The Christian Science Monitor - July 10, 1940
- ↑ New York Times - August 14, 1992 obituary for Hope Hanes
- ↑ BloodHorse.com - August 11, 2005
- ↑ National Museum of Racing and Hall of Fame 2011 Media Guide
- ↑ New York Times - December 31, 1987 obituary for John W. Hanes
- ↑ Hartford Courant - December 28, 1961
<references>
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