マサタカラ
Godolphin Arabian | Cade | Matchem | Trumpator | Sorcerer | Comus | Melbourne | West Australian | Solon |
Barcaldine | Marco | Marcovil | Hurry On | Precipitationn | Preciptic |
マサタカラは日本の競走馬。持込馬で、オールカマーなど重賞3勝をあげ、有馬記念では3着に好走した。のちに種牡馬になり、活躍馬を出した。
マサタカラ | ハリーオン系 | |||
性 | 牡 | Preciptic 1942 栗毛 イギリス |
Precipitation | Hurry On |
毛色 | 鹿毛 | Double Life | ||
生年 | 1954 | Artistic | Gainsborough | |
生産地 | 北海道・浦河町 | Ishtar | ||
生産者 | 出口留雄 | *キーボード 1943 黒鹿毛 イギリス |
Bois Roussel | Vatout |
馬主 | 西博 | Plucky Liege | ||
調教師 | 古賀嘉蔵 | Keystone | Umidwar | |
成績等 | 36戦6勝 | Rosetta F-No.1-w |
- 2~5歳時36戦6勝
- 主な勝鞍 オールカマー、ダイヤモンドステークス、カブトヤマ記念、有馬記念3着、天皇賞(秋)4着。
マサタカラの母、キーボードは世界的な名牝系であるマーチェッタ(Marchetta)の系統の牝馬である。キーボードから見て3代前のローズレッド(Rose Red)はマーチェッタの二大産駒のうちの片方であり、ロゼッタ(Rosetta)のほか、オーロラ(Aurora)を産んだ。マサタカラ当時の観点で言うと、この牝系はオーロラの子アリシドン(Alycidon)やラヴェンデュラの系統のマイバブ(My Babu)が大成功している時代で、マサタカラはイギリス三冠牝馬のMeld(父アリシドン)などと同時代の競走馬である。同じ牝系の馬で日本関連では、ブッフラー(Bouffleur ローズレッドから数えて4代目)が日本で種牡馬になるのが1956年である。祖母のキーストーン(Keystone)は1000ギニーで3着になった活躍馬で、母のキーボード(Keybord)はマサタカラの前に数頭の勝ち馬を出していた。第二次世界大戦の間は日本へのサラブレッド輸出が禁じられていたのだが、終戦後の1952年にようやく解禁された。このため、キーボードが日本へ輸入される1953年当時には、これだけ血統が良い牝馬が日本へ入ることは珍しいことだった。輸入時にキーボードの腹の中にはプレシプティクの仔がおり、1954年に日本で無事出産した。これが本馬である。そのあとキーボードは結局日本で1頭も仔を出せず、マサタカラがキーボードの日本での唯一の産駒になった[1]。なおマサタカラの半姉のブループレリュード(Blue Prelude)の曾孫に日本で種牡馬入りしミホノブルボンの父となったマグニテュードがいる。
マサタカラが競走馬としてデビューするのは2歳(1956年)の暮れで、1000メートルの競走で大きく離された3着に終わった。その後、マサタカラは春まで待ち、3歳(1957年)の4月に1700メートルの未勝利戦で勝ちあがった。当時はまだ持込馬が日本ダービーに出走することが可能だった時代で[2]、マサタカラは1勝馬の身ながら5月末の日本ダービーに出走した。20頭中の10番人気で、6着でゴールした。夏に条件戦で1勝し、セントライト記念で4着になって菊花賞に出走し、6着に入った[3]。
このように同世代相手のクラシック戦線では善戦どまりだったが、次のカブトヤマ記念でセルローズを半馬身抑えて優勝し、初の重賞勝ちとなった。有馬記念にも出たが、9頭中7着に終わっている[3]。
4歳になると春にダイヤモンドステークス(2600メートル)で重賞2勝目を果たし、さらに1600メートルのオープン戦を勝って本命で安田記念に臨んだが、3位になり、その後競走中の進路妨害によって失格となった。秋にはオールカマー(2000メートル)を勝ち、天皇賞(秋)はミスオンワードに次ぐ2番人気に支持された。しかし、カブトヤマ記念やダイヤモンドステークスで負かした牝馬のセルローズが人気薄で勝ち、マサタカラは4着だった。マサタカラは暮れの有馬記念にも出走し、3着に好走した。マサタカラはさらに年が明けて金杯(2600メートル)にも本命で出走したが大きく敗れ、それを最後に引退した[3]。引退後は種牡馬となり、産駒には羽田盃を勝ったマサホウなどがいる。母の父としては東京大賞典、羽田盃に勝ったダイニヘルスオーを出した。