ヤサカ
Godolphin Arabian | Cade | Matchem | Trumpator | Sorcerer | Comus | Melbourne | West Australian | Solon |
Barcaldine | Marco | Marcovil | Hurry On | Precipitationn | Summertime |
ヤサカはニュージーランド産のサラブレッドで、日本で競走馬として走り、重賞5勝を含む20勝をあげた。種牡馬としても成功した。
ヤサカ | ハリーオン系 | |||
性 | 牡 | Summertime 1946 鹿毛 イギリス |
Precipitation | Hurry On |
毛色 | 栗毛 | Double Life | ||
生年 | 1952 | Great Truth | Bahram | |
生産地 | ニュージーランド | Frankly | ||
生産者 | Oleno 1943 ニュージーランド |
Vaals | Valais | |
馬主 | 熊谷新太郎 | Galtee Queen | ||
調教師 | 武田文吾 | Paxeno | Bronze Eagle | |
成績等 | 32戦20勝 | Archeno F-No.- |
ヤサカは昭和28年(1953年)に競走馬としてニュージーランドから日本へ輸入された。輸入したのは西日本馬主協会である。北半球にある日本と南半球のニュージランドは季節が逆転するので、馬の誕生時期も半年ズレがあり、ヤサカは一般的な日本産のサラブレッドと比較して半年ほど幼く、成長が遅れているというハンデがある[1][2]。
ヤサカは3歳(1955年)の1月(前述の通り、出生時期の違いのせいで、ヤサカにとっては実質的に2歳の夏に相当する)にデビューすると、京都4歳特別や毎日杯を含めて6連勝した。ヤサカは外国産馬なのでクラシック競走の出走資格がなかったが、秋になると京都杯で、この年の皐月賞とダービーで2着になったカミサカエを破り、さらに朝日チャレンジカップではカミサカエより1キロ重い斤量を背負って勝った。ヤサカは3歳時だけで15戦して12勝、残りの3回も全て2着という成績だった。特に秋シーズンは毎回60キロ以上を背負って5連勝している[1][2]。
この年のクラシックは、皐月賞をケゴンが勝ち、不良馬場で行われた日本ダービーは人気薄のオートキツがまんまと逃げ切り、菊花賞はメイヂヒカリが勝った。当時はまだ有馬記念はなく、春の天皇賞を勝って地方に転出したタカオーや、秋の天皇賞を勝ったダイナナホウシュウをおさえて、オートキツがこの年の年度代表馬に選出された。しかし、皐月賞とダービーで2着のカミサカエを破り、この年に重賞4勝をあげたヤサカを年度代表馬に相応しいとするものもあった[1][2]。
古馬になると、中京競馬場のダート1600メートルでレコード勝ちするなど、春に2勝をあげて天皇賞(春)に挑んだ。それまで最長で2400メートルまでしか走ったことがないヤサカは4番人気に支持されたが、10着に大敗した(勝ったのはメイヂヒカリ)。これがヤサカの競走生活で唯一掲示板を外した競走となった[1]。
秋の京都杯(当時は古馬も出走することができた)では、1歳下の世代の2歳牝馬チャンピオンのトサモアーを破り、京都杯連覇を達成した。ヤサカは5歳の春まで走ったが、出走する競走のほぼ全てで63キロ以上を背負った。最終的な戦績は32戦20勝である[1][2][3]。
ヤサカは種牡馬になると、自分自身と同様、短距離でスピードのある産駒を出した。まず、2年目の産駒にカネツセーキが出て、1961年の2歳馬チャンピオンになった。カネツセーキは翌年(1962年)も最良スプリンターに選出され、この年はほかにもヨシシオが阪神牝馬特別に勝った。しかしヤサカはその直後に死んでしまい、1963年生まれが最後の世代となった。この中のネイチブランナーは、成長につれて距離を克服し、4歳の秋には天皇賞(秋)(3200メートル)で2着になった[1][3]。母の父としてはマイラーズカップなど中央競馬重賞を5勝し種牡馬となったシルバーランドや1968年の最優秀3歳牝馬に選出されたショウゲッコウ(ヒダカスズラン)を出している。