Premonition
Godolphin Arabian | Cade | Matchem | Trumpator | Sorcerer | Comus | Melbourne | West Australian | Solon |
Barcaldine | Marco | Marcovil | Hurry On | Precipitationn | Premonition |
プレモニション(Premonition)はイギリス産の競走馬。セントレジャーに勝った。種牡馬としても一定の成功をおさめた。
プレモニション Premonition | {{{inf}}} | |||
性 | 牡 | Precipitation 1933年 栗毛 |
Hurry On | Marcovil |
毛色 | 鹿毛 | Tout Suite | ||
生年 | 1950 | Double Life | Bachelor's Double | |
生産地 | イギリス | Saint Joan | ||
生産者 | Dunchurch Lodge Stud | Trial Ground 1944年 鹿毛 |
Fair Trial | Fairway |
馬主 | Wilfred Penfold Wyatt | Lady Juror | ||
調教師 | Cecil Boyd-Rochfort | Tip the Wink | Tetratema | |
成績等 | 14戦8勝 | Golden Silence F-No.14-c |
- 14戦8勝
- 主な勝鞍 セントレジャー、ヨークシャーC、ヴォルティジュールS。愛ダービー1位入線後失格。
プレモニションは2歳(1952年)の秋にデビューした。3歳(1953年)になると、エプソム競馬場のブルーリバンドダービーTRやヨーク競馬場のグレートノーザンステークスに勝ち、ダービーの有力候補となった。前年に即位したエリザベス2世の戴冠式が日曜日に行われる影響で、この年(1953年)のダービーは特別に土曜日に行われた。プレモニションは、ピンザと並んで6倍の1番人気だった。これに続いたのが、エリザベス女王の持ち馬オリオールだった。ダービーにはエリザベス女王と王太后も臨席にした。女王陛下のオリオールは2着に入り、ピンザが勝ったが、プレモニションは後方のままいいところなく敗れた[1][2]。
次にプレモニションはアイルランドのダービーに出走した。ゴール前はもつれ合い、プレモニションはシャミエにアタマひとつ出てゴールした[3]。シャミエを管理するヴィンセント・オブライエン調教師の指摘により、シャミエの騎手は最後の1ハロンでプレモニションがシャミエの進路を妨害したとして異議を申し立てた[3]。非常に長い審議が行われ、アイルランドのダービー史上初めて、決勝写真が判定に使われることになった[3]。最終的に審判はシャミエ側の抗議を認め、プレモニションを失格と裁定した[3]。プレモニションのロックフォート調教師(Cecil Boyd-Rochfort)はこの判定を不服とし、ゴール前のニュース映像のフィルムを入手してニューマーケットの映画館で1周間に渡って上映した[3]。さらに、ロックフォート調教師は、これ以後管理馬をアイルランドの競馬に一切出走させなくなった。彼が、母国であるアイルランドの競馬に管理馬を送るようになったのは、12年後にアイルランドダービーに大改革が行われた時だった[3][4]。
プレモニションの次の目標はセントレジャーとなった。夏のヨーク競馬場のヴォルティジュールSで、ダービーでは先着を許したエンパイアハニー(Empire Honey)を首差で破り[2]、セントレジャーに11倍の人気で臨んだ。本命馬は同厩のオリオール(2.5倍)、2番人気はパリ大賞を勝ってきたフランス馬ノーザンライト(Northerrn Light)がいた。ドンカスター競馬場には25万の観衆が押し寄せた。その中にはエリザベス女王とチャーチル首相もいた。プレモニションは直線で力強く抜け出し、後続に3馬身差をつけて優勝した。2着にフランソワ・デュプレ氏のノーザンライトが入り、女王陛下のオリオールは更に3馬身遅れた3着どまりだった[2][5]。
プレモニションは次にフランスへ渡り、凱旋門賞に挑んだ。どちらかというと柔らかい馬場に向きスピードの出るコースが得意[6]なプレモニションにとってはロンシャン競馬場は相性の良さそうな競馬場だった[2]。イギリス人は4頭目となるイギリス馬の凱旋門賞馬の誕生を信じて疑わなかった[2]。アガ・カーン3世は4頭、マルセル・ブサックは3頭、ポール・デュボスク氏も2頭を送り込んだが、話題を集めたのは、イギリス人モデルの恋人を伴って現れたドイツの大富豪ハインリッヒ・フォン・ティッセン男爵で、ドイツ馬としては20年ぶりとなるニーデルレンダーを送り込んできた[2]。このレースは道中で「ポロ競技のような[2]」大変なラフプレーが相次ぎ、プレモニションも他馬に右後脚を蹴られて腱まで達する裂傷を負い、大きな不利を被って6着に敗れた[2]。プレモニションのスミス騎手は、翌日狩り出てキジを14羽、うさぎを1匹仕留めてようやく鬱憤を晴らした[2]。レースはペースメーカーを擁してこれらのトラブルに巻き込まれなかったデュボスク氏が1、2着を独占することになった[2]。
翌年、プレモニションはアスコット金杯のビッグタイトルを目指すことになった。プレモニションのために、馬主のワイアット氏はオズボーン(Osborne)という馬を購入して、プレモニションの調教相手とペースメーカーを努めさせることにした。オズボーンを帯同したプレモニションは、ヨークシャーカップを3馬身差で勝ち、凱旋門賞で受けた傷がすっかり癒えたことを示した[7]。
次走のウィンストンチャーチルステークス(2マイル)で、プレモニションは1.12倍の大本命になった。ペースメーカーを務めるオズボーンのバロウズ(Royce Burrows)騎手はまだ経験が浅く、ロックフォート調教師は「最後の直線でまだ足が余っていたら2着を狙え」と指示した。バロウズ騎手はオズボーンを直線まで気分よく逃げさせ、ペースメーカーの役割をよく果たしたようだったが、大きくリードを取り過ぎていて、そのまま逃げ切ってしまいそうな体勢になった。バロウズ騎手はロックフォート調教師の指示を守るため、オズボーンを抑え、必死に追い込んできたプレモニションに勝ちを譲ってアタマ差の2着でゴールした。イギリスのジョッキークラブはこれに対し、ロックフォート調教師がバロウズ騎手に不適切な指示を行い、公正な競馬を妨げたとして100ポンドの罰金を課した。ロックフォート調教師はこれを不服とし競馬界を去ることになった[8][9]。
これ以後プレモニションは調子を崩し、アスコット金杯やキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスで惨敗して引退した。オズボーンのほうはその後大成し、グッドウッドCとドンカスターCを勝った。
主な父系子孫
- Premonition
- |Ides of March 1957生 牡馬 ケンブリッジシャーS3着。 スウェーデン種牡馬
- |Forearmed 1960生 牡馬 デューハーストステークス2着 ニュージーランド種牡馬
- ||Epidaurus 1966生 牡馬 VRCニュージーランドセントレジャー
- |Goupi 1962生 牡馬 ジョッキークラブカップ、チャーチルステークス
脚注
- ↑ 『ダービーの歴史』アラステア・バーネット、ティム・ネリガン著、千葉隆章・訳、(財)競馬国際交流協会刊、1998,p188
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 2.7 2.8 2.9 『凱旋門賞の歴史』2巻、p18-36
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 the Nationalist "Classic capers"2014年4月30日閲覧。
- ↑ プレモニションの失格によって3着に繰り上がったクロンリーズン(Clonleason)もシャモセールの産駒だった。
- ↑ エドモントン・ジャーナル誌 1953年9月12日号 “Royal Colt 3rd In St.Leger”2014年4月30日閲覧。
- ↑ 「柔らかい馬場」と「スピードの出るコース」は矛盾するのではないかと考える方もいるだろうが、「スピードの出るコース」というのは、カーブが緩い、馬場が広い、高低差が少ない、直線が長いといった特徴があげられる。芝や馬場の“硬柔”とは別の概念である。
- ↑ イブニングタイム紙 1954年6月12日付 “Premonition has right credentials to win Ascot Gold Cup/Recovered Well”
- ↑ イブニングタイム紙 1954年7月29日号 “Osborne shook the Experts”2014年4月30日閲覧。
- ↑ リーダーポスト紙 1954年6月12日 “Royal trainer hurt by fine”2014年4月30日閲覧。