「アラン2世 (ブルターニュ公)」の版間の差分
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2018年4月13日 (金) 22:16時点における版
アラン2世(フランス語: Alain II de Bretagne、英語: Alan II, Duke of Brittany、?年 - 952年)はフランスのブルターニュ公。ヴァンヌ伯、ナント伯でもある。「バルブトルト(フランス語: Barbetorte、「捻毛公[1]」、「ひねり鬚[2]」)や、ブルトン語: al louarn(「狡猾公[注 1]」)などのあだ名がある。ブルターニュ王国を築いたアラン1世の孫。
アラン2世がブルターニュを継承したころ、フランスはヴァイキングによる略奪に悩まされており、ブルターニュの首府ナントもヴァイキング被害を受けていた。当時の西フランク王国の王ラウールは、ヴァイキングに対してコタンタン半島とアヴランシュをヴァイキングへ渡すことを認めてしまい、ブルターニュの版図はバラバラになってしまった[1]。
アラン2世はドーバー海峡を渡ってイングランドへ逃れ、ウェセックス王国のアゼルスタン王(在位:924年 - 939年)の庇護を受けた[1][注 2]。アゼルスタンのもとには、前のフランス王シャルル3世の子、ルイ(のちのルイ4世)も亡命していた[注 3]。フランスでラウール王が死ぬと、アラン2世とルイはフランスへ戻り、ルイはルイ4世として即位した。
アゼルスタン王を後ろ盾にしたアラン2世は、レンヌ伯ジュエル・ベランジェ、メーヌ伯Hugh I, Count of Maineの協力を得て、ヴァイキング(ノルマン人)からブルターニュを奪い返した。このあとアラン2世は939年にルイ4世への臣従儀礼を行い、ブルターニュ公・ヴァンヌ伯・ナント伯として認められた[1]。
アラン2世はトゥール伯ティボー1世の娘と結婚した。夫婦のあいだに生まれたドロゴはのちにブルターニュ公位を継いだ。ほかに、愛人ユーディトとの間には非嫡出子のオエルとグエレスという子をもうけた。ドロゴが死んだあとはオエルがオエル1世としてブルターニュ公を継ぎ、さらにそのあとはグエレスがブルターニュ公となった。
脚注
注釈
- ↑ 「al louarn」はブルトン語で「キツネ」の意。
- ↑ アゼルスタン王は、七王国に分裂していたイングランドの統一を半ば達成し、姉妹をドイツやフランスの王へ嫁がせて内外に関係を強化していた[3]。
- ↑ シャルル3世と戦って王位を奪ったのがラウールで、このときにまだ幼児だったルイはイギリスへ逃がされていた。
出典
書誌情報
- 世界歴史大系『フランス史1 ―先史~15世紀―』,柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦/編,山川出版社,1995,2005,ISBN 4-634-46090-4
- 世界歴史大系『イギリス史1 ―先史~中世―』,青山吉信・飯島啓二・永井一郎・城戸毅/著,青山吉信/編,山川出版社,1991,2006(第5刷),ISBN 4-634-46010-6
- 『ケルト歴史地図』,ジョン・ヘイウッド/著,井村君江/訳,東京書籍,2003,ISBN 9784487797387