ドロゴ (ブルターニュ公)
en:Drogo, Duke of Brittany(oldid=707657622)より転記
ドロゴ(フランス語: Drogon de Bretagne、英語: Drogo of Brittany、?年 - 958年)はフランスのブルターニュ公(在位:952年 - 958年)・ナント伯(在位:952年 - 958年)・ヴァンヌ伯。
ドロゴの父親はアラン2世。
ドロゴがブルターニュ公となったとき、まだ幼少だったため摂政がつけられた。摂政を務めたのは、おじのブロワ伯ティボー1世(ドロゴの父アラン2世の娘と結婚していた)、義父のアンジュー伯フルク2世(アラン2世の没後、ドロゴの母と再婚してた)である。実際には、ティボー1世はドルの大司教(Diocèse de Dol)とレンヌ伯ジュエル・ベランジェにブルターニュ公の世話を一任していた。
生涯
fr:Drogon de Bretagne(oldid=142079197)より転記
ドロゴは、父アラン2世と母ロシーユ(ブロワ伯ティボー1世の姉妹)とのあいだの1人息子だった。生年は950年頃。952年、まだ2歳になったころに、父アラン2世の死によって、ナント伯とブルターニュ公の位を継いだ。
ブロワ伯ティボー1世と、未亡人となったドロゴの母ロシーユを妻に迎えた、アンジュー伯フルク2世が後見人となった。
ブルターニュ公国の統治は次のように分割された。フルク2世はナント伯位に就いてドロゴを守護し、ティボー1世はブルターニュ北部を担当することになった。しかし、フランス中央部のブロワを本貫とするブロワ伯ティボー1世にとってはブルターニュ北部は遠すぎるため、臣下だったレンヌ伯ジュエル・ベランジェとドルの大司教(Diocèse de Dol)にブルターニュ北部のことを委ねることにした。
958年頃、アンジェにいたドロゴが死んだ。毒殺だったとも言われている。『ナント年代記』によれば、アンジュー伯フルク2世が犯人だったという証人が何人かいたのだという。実際、フルク2世はこのあと958年から960年までナント伯の座に就いた。960年にフルク2世が死ぬと、ドロゴの異母弟だったオエル1世を新しいナント伯に迎えた。オエル1世が死んだ後は、その弟のグエレスがナント伯を継いだ。
関連項目
|
|
|
|
|
|