スティンティノ
Godolphin Arabian | Cade | Matchem | Trumpator | Sorcerer | Comus | Melbourne | West Australian | Solon |
Barcaldine | Marco | Marcovil | Hurry On | Precipitationn | Sheshoon |
スティンティノ(Stintino)はイギリス産の競走馬。フランスでリュパン賞に勝ち、日本に輸入されて種牡馬になり、成功した。
スティンティノ Stintino | ハリーオン系 | |||
性 | 牡馬 | Sheshoon 1956年 栗毛 アイルランド |
Precipitation | Hurry On |
毛色 | 鹿毛 | Double Life | ||
生年 | 1967 | Noorani | Nearco | |
生産地 | イギリス | Empire Glory | ||
生産者 | Cynara 1958年 芦毛 イギリス |
Grey Sovereign | Nasrullah | |
馬主 | Kong | |||
調教師 | Ladycroft | Portlaw | ||
成績等 | 12戦5勝 | Cosmobelle F-No.1-n |
- 2~4歳時12戦5勝
- 主な勝鞍 リュパン賞、ギシュ賞、シャンティイ賞、クリテリウムドサンクルー、トレパ賞、イギリスダービー3着、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス4着
スティンティノは2歳戦でデビューし、2000メートルのクリテリウムドサンクルーなど2戦2勝で2歳シーズンを終えた。
3歳になるとギシュ賞、リュパン賞(2100メートル)を勝ち、イスパーン賞で3着になった後、イギリスのダービーへ向かった。この年のイギリスダービーの本命は2歳チャンピオンのニジンスキーだったが、ニジンスキーには距離の不安があり、この馬としては人気を落としていた。スティンティノは後方から進み、最後の直線半ばから、一番外からニジンスキーと並んで一気に追い込んだ。残り100メートルほどでは、ジル、ニジンスキー、スティンティノの3頭がほぼ横一線になったが、そこからニジンスキーが一気に抜けだして2馬身半差をつけた。スティンティノはジルに続いて3着になった。このあとスティンティノは秋のシャンティイ賞(2200メートル)を勝った[1][2]。
4歳になると春のガネー賞で3着になったほか、コロネーションカップで2着、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスでは4着になった[1][2]。
その年のうちに、スティンティノは日本に売却されて種牡馬になった。日本ではシンジケートが組まれ、毎年70、80頭の牝馬に種付けされ、例年にわたって50頭以上の産駒がデビューした。産駒のうち最も活躍したのは南関東で走ったチョウヨオエース[3]で、2600メートルの東京王冠賞を後方からまくって優勝した。ほかにはフラワーカップを勝ってオークスで4着になったファーストマイティ、朝日杯3歳ステークスで2着になったスズフタバ、東海中日スポーツ杯に勝ったシゲルオーが出た。しかし、産駒の傾向としては一流にあと一歩足りないという子が多く、重賞の2、3着馬を多く出した。産駒の中では、8歳で準オープンの福島テレビ杯に勝つなど10勝をあげ、逃げ馬として長く活躍したイクエヒカルが種牡馬になったものの、特筆すべき成績は出していない[1][2][4][5]。スティンティノは、母の父としてはウイニングスマイル(GII時代のスプリンターズステークス)、アイノフェザー(クイーンカップ)、アブクマレディー(クラスターカップ)、マルタカトウコウなど1200m~1600mでの活躍馬を輩出した。
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 『日本の種牡馬録3』白井透・著、サラブレッド血統センター・刊、1977、p242-243 スティンティノ
- ↑ 2.0 2.1 2.2 『サラブレッド種牡馬銘鑑』第2巻、日本中央競馬会・刊、1972、p99-100 スティンティノ
- ↑ 南関東公営競馬では、競走馬の馬名登録に拗音の小文字表記が長い間認められなかったため、便宜上「 チヨウヨオエース」表記で登録されている。これ以外の一般の文献では「チョウヨオエース」と表記するのが通例(『日本の種牡馬録3』、『サラブレッド血統事典』など)である。
- ↑ 『サラブレッド血統事典』山野浩一・宇佐美恒雄、石崎欣一、二見書房、1989、p299 スティンティノ、p60 イクエヒカル
- ↑ 『サラブレッド血統事典』山野浩一・吉沢譲治、二見書房、1992、1996、p299 スティンティノ、p65 イクエヒカル