Sheshoon
Godolphin Arabian | Cade | Matchem | Trumpator | Sorcerer | Comus | Melbourne | West Australian | Solon |
Barcaldine | Marco | Marcovil | Hurry On | Precipitationn | Sheshoon |
シェシューン(Sheshoon)は1956年生まれのイギリス産馬。栗毛。サンクルー大賞、ジョッキークラブゴールドカップ、バーデン大賞など、フランス、イギリス、ドイツの長距離重賞を中心に8勝をあげた。
種牡馬としては1970年にフランスのチャンピオンサイヤーになった。
シェシューン Sheshoon | {{{inf}}} | |||
性 | 牡 | Precipitation 1933年 栗毛 |
Hurry On | Marcovil |
毛色 | 栗毛 | Tout Suite | ||
生年 | 1956 | Double Life | Bachelor's Double | |
生産地 | アイルランド[1][2] | Saint Joan | ||
生産者 | アーガー・ハーン3世、アリ・カーン王子 | Noorani 1950年 栗毛 |
Nearco | Pharos |
馬主 | アーガー・ハーン4世 | Nogara | ||
調教師 | Empire Glory | Singapore | ||
成績等 | 17戦8勝[3] | Skyglory F-No.- |
- 17戦8勝(※同着が1戦あるため7 1/2勝とするものもある)
シェシューンの母ヌーラニ(Noorani)はデュークオブヨークHの優勝馬で、セントサイモン5*5×4の強い近親交配をもっている。ヌーラニにプレシピテーションが交配されて生まれたのが本馬シェシューンで、シェシューンとはアガカーンの所有牧場がある地名からとられている。シェシューンの1つ下の半弟のシャルロットヴィル(Charlottesville)は、フランスでリュパン賞、仏ダービー、パリ大賞を勝ったフランスの名馬である。シェシューンやシャルロットヴィルが生まれた時点では、牧場の所有者はアガ・カーン3世だったが、3世の後継者になるはずだったアリ王子が1957年の5月に交通事故で急逝し、3世もその夏に死去したため、3世の孫のアガ・カーン4世が後継者となった。3世は既に優れた競走馬の生産者兼馬主として知られていたが、跡を継いだ4世にとって最初の名競走馬になるのが、シェシューンとシャルロットヴィルの兄弟だった[4]。
シェシューンはシャルロットヴィルの1歳上の半兄とはいえ、典型的なハリーオン系の晩成型だった。弟のシャルロットヴィルのほうは3歳から頭角を現し、リュパン賞、仏ダービー、パリ大賞典を連勝してドゴール大統領に謁見した頃には、すっかりフランスを代表する競走馬になっていたので、シェシューンのほうが「シャルロットヴィルの半兄」と見られていた[5]。
競走成績
シェシューンが本格的に活躍を始めたのは古馬になってから、つまり、シャルロットヴィルがダービーやパリ大賞典を勝った頃のことである。4月にバルブヴィル賞を勝ち、続くジャンプラ賞で負けた後、5月にカドラン賞に出たシェシューンは、ゴールまであと残り50メートルというところでほとんど勝利を確実にしていた。ところがあとわずかというところで躓いたため、短頭差でルルーガルー(Le Loup Garou)に先着を許してしまった。これがシェシューンが一流の競走で能力を発揮した最初となった[5]。
このあとシェシューンはイギリスへ渡り、アスコット金杯に出た。シェシューンはこれを勝って、一流馬の仲間入りを果たした。このとき2着になったエクサー(Exar)は、この年にグッドウッドCとドンカスターCを勝っており、もしゴールドカップもシェシューンに敗れていなければ、長距離三冠を達成していたところだった。3着は前回煮え湯を飲まされたルルーガルーだった[5]。
続くサンクルー大賞では、直線に向いた時は馬群の一番後ろにいたのに、一気に全馬を差しきって6馬身差をつけて勝った。さらにゴントービロン賞を勝った後ドイツに向かい、バーデン大賞ではドイツ古馬最強のアージオ(Agio)と3歳最強のモヒカンダー(Mohikaner)をまとめて破った[5]。
シェシューンはこのあと凱旋門賞に出た。半弟のシャルロットヴィルも出走してきたので、同馬主の両馬はカップル馬券として売られ、1.4倍の圧倒的な本命となった。凱旋門賞当日は酷い雨と風で、たいへんな重馬場になった。シェシューンはスタートで他馬にぶつけられて最後方からの競馬になった。シャルロットヴィルの方は先行して絶好の位置取りだったが、勝負どころから直線に入ると、両馬とも全くよいところがなく敗れた。あとになって、どちらもヌーラニの産駒で道悪が苦手だったとされた[5][6]。
シェシューンは凱旋門賞出走の寸前に売買契約が成立しており、凱旋門賞のあとはアイルランドのキルケニーで種牡馬になった。シェシューンの勝鞍の中には同着1位の競走があるため、勝鞍数を「7 1/2勝」とする記録もある[7]。
種牡馬成績
1970年に産駒のササフラ (Sassafras) (凱旋門賞、仏ダービー、ロワイヤルオーク賞)などの活躍によって、ヨーロッパ総合のチャンピオンサイヤーになった[8]。
主な産駒はササフラ(Sassafras 凱旋門賞、仏ダービー、ロワイヤルオーク賞)、*プルバン(Pleben パリ大賞典、ロワイヤルオーク賞)、モンフィス(Mon Fils 2000ギニー)、オークヒル(クリテリウムドプーリッシュ)、*スティンティノ(Stintino リュパン賞)、リバーサイド(Riverside ロワイヤリュー賞)、サモ(Samos ロワイヤルオーク賞)、フリン(Flynn ハンガリーセントレジャー)、マンチェスター(Manchester ストラスブール賞)[8]などである。
ハリーオン系の特徴として伝わる大きな体をした産駒が多く出た。しかし一方、ハリーオン系のもう一つの特徴である、長距離向きのスタミナは、産駒にはそれほど伝わらなかった。日本へは優秀な産駒がかなり輸入され、一定の成功をおさめた[9]。
主な父系子孫
- Sheshoon
- |Sassafras 1967生 牡馬
- |シェスキイ 1963生 牡馬 最良スプリンター
- |Samos 1964生 牡馬 ロワイヤルオーク賞
- ||Samiko 1971生 牡馬
- |||El Santarem 1978生 牡馬 伯ダービーG1
- |||Endykid 1982生 牡馬 サンパウロジョッキークラブ大賞G1
- ||Campero 1977生 牡馬 5月25日大賞G1、7月9日大賞G1、ローマ賞G1
- |||Bien Bacan 1987生 牡馬
- ||||Bien Guapo 1993生 牡馬 ウルグアイ2000ギニーG1
- |*バダクシャーン 1965生 牡馬
- ||ファインドラゴン 1976生 牡馬 京都新聞杯、阪神大賞典
- |Riverside 1966生 牝馬 ロワイヤリュー賞
- |Vela 1967生 牝馬 クリテリウムデプーリッシュ
- |*スティンティノ 1967生 牡馬 リュパン賞
- ||イクエヒカル 1978生 牡馬 種牡馬
- ||チョウヨオエース 1982生 牡馬 東京王冠賞
- |*プルバン 牡馬 1969生 パリ大賞典 ロワイヤルオーク賞 凱旋門賞2着
- ||リンドプルバン 牡馬 1976年 日本ダービー2着
- ||アリーナオー 牡馬 1978生 阪神大賞典
- |Mon Fils 1970生 牡馬 2000ギニー
- |Oak Hill 1972生 牝馬 クリテリウムデプーリッシュ
脚注
- ↑ 『日本の種牡馬録1』白井透・著、サラブレッド血統センター・刊、1969、p102-103 シェスキイ
- ↑ 本文にもあるようにシェシューンはアガ・カーン3世とアリ・カーン王子の生産馬である。彼らはアイルランドに牧場を所有しており、本馬をアイルランド産とする資料も多い。例 Bloodlines、一方、(理由や根拠は不詳だが)本馬をイギリス産とする資料もたくさんある例 サラブレッドヘリテイジ。本項では、アイルランド産とした。
- ↑ Sporthorse Sheshoon2013年11月3日閲覧。
- ↑ アガカーン牧場HP シェシューンスタッドの歴史2013年11月3日閲覧。
- ↑ 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 『凱旋門賞の歴史』第2巻(1952-1964)アーサー・フィッツジェラルド・著、草野純・訳、財団法人競馬国際交流協会・刊、1996、148-160 1960年凱旋門賞
- ↑ 『フランス競馬百年史』 ギイ・チボー・著、真田昌彦・訳、財団法人競馬国際交流協会・刊、2004、p185
- ↑ 『日本の種牡馬録1』白井透・著、サラブレッド血統センター・刊、1969など
- ↑ 8.0 8.1 『Register of Throughbred Stallions of New Zealand Vol.IX』,The New Zealand Throughbred Breeder's Association(Inc),New Zealand Blood-Horse Ltd.,1976,p268-269 Plaban
- ↑ 『サラブレッド血統事典』山野浩一・吉沢譲治、二見書房、1992、1996,p848-849,シェシューン